本多忠良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本多 忠良(ほんだ ただなが、元禄3年(1690年) - 宝暦元年6月1日(1751年6月23日))は、江戸時代中期の大名、政治家。越後村上藩、三河刈谷藩、下総古河藩主。幕府では側用人、老中。最終官位は従四位下・侍従・中務大輔。正室は本多政利の娘。子に忠敞、忠寛、娘(水野忠辰室)。
本多家の分家筋にあたる播磨山崎藩主・本多忠英の長男として誕生。宝永7年(1710年)、15万石の本家本多家当主・本多忠孝が7歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところ、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった。ただし藩主死去後の急養子の形であるため忠良相続後まもなく、10万石減封のうえ、越後村上から三河刈谷に転封となっている。
幕府では、6代将軍家宣より側用人に抜擢され(1710年)、翌年には侍従にあげられ席次は老中に次ぐと定められた。7代将軍家継が死去し、紀州から徳川吉宗が8代将軍に就任(1716年)すると側用人を解かれ帝鑑間席に戻ったが、忠良は本多平八郎の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された。18年後には再び国政の表舞台に復帰し、西丸、本丸老中を勤めた。
本多家は子の本多忠敞が継いだ。
[編集] 経歴
- 1690年(元禄3年) 生まれ
- 1709年(宝永6年) 本多家相続
- 1710年(宝永7年) 従四位下・中務大輔に叙任し、側用人にあげられる。三河刈谷に転封。
- 1711年(正徳元年) 侍従にあげ席次は老中に次ぐと定められる
- 1712年(正徳2年) 下総古河藩に転封
- 1716年(享保元年) 側用人を免ぜられ、帝鑑間席に戻される
- 1734年(享保19年) 西丸老中
- 1735年(享保20年) 西丸から本丸老中に転ずる
- 1746年(延享3年) 老中を退く
- 1751年(宝暦元年) 6月1日卒。享年62。
|
|
|
|
|
|
|
|
|