本多忠敞
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本多 忠敞(ほんだ ただひさ、享保12年(1727年) - 宝暦9年7月10日(1759年8月2日))は、江戸時代中期の大名。本多忠良の子。下総国古河藩主。石見国浜田藩主。正室は牧野貞通女。子に忠粛、娘(本多忠盈室)、娘(植村家久室、後に三浦前次室)。官位は、従五位下、美濃守、中務大輔。名は忠敝とも。本多忠敞は、徳川四天王の一人である本多忠勝の直系の家。
宝歴元年(1751年)に父 本多忠良が死んだことにより家督相続。宝暦9年(1759年)、古河藩から浜田藩へ移封後、33歳で死去。家督は、養嫡子本多忠盈(真田信弘の子)が継いだ。
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