本間俊太郎
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本間 俊太郎(ほんま しゅんたろう、昭和15年(1940年)2月26日 - )は、宮城県知事(在任期間、平成元年(1989年)3月28日~平成5年(1993年)10月4日)。宮城県中新田町(現在の加美町)出身。父は衆議院議員の本間俊一。
[編集] 来歴・人物
昭和15年(1940年)2月26日本間俊一の長男として、宮城県中新田町に生まれる。中央大学法学部在学中に父が急死し、母さよは本間薬局を開業して本間たち兄弟を卒業させた。大学卒業後、読売新聞社に入社し記者となる。
昭和49年(1974年)中新田町長選挙に擁立され当選する。当選回数4回。中新田町長時代の代表的な業績としては昭和56年(1981年)中新田バッハホール(正式名称は中新田町民文化会館、現在は加美町中新田文化会館)の建設、開園が挙げられる。この事業が町おこしとして高く評価され、アイディア町長として有名になる。
平成元年(1989年)山本壮一郎知事の引退を受けた宮城県知事選挙に日本社会党などの推薦で立候補し当選する。立候補に際しては、議員を辞めていた西宮弘のもとを訪れて、極秘に教会で相談をしていた。当選後は、一転して社会党と距離を置き、自民党会派と急接近した。二期目の選挙では、当初自民党にのみ支持を要請し、社会党には要請しなかったが、社会党は一方的に支持を表明、本間陣営もそれを拒否はしなかった。「伊達なクニづくり」のスローガンのもとで県政を運営し、行政手腕は高い評価を受けた。
しかし、その一方で大規模公共工事による箱もの行政を推進したことによりゼネコンと癒着が進み、「天の声」として談合に深く係わっていたことがゼネコン汚職として発覚。平成5年(1993年)6月29日に石井亨仙台市長が逮捕され、本間も10月4日に贈賄側の清水建設幹部とともに収賄容疑で逮捕され、任期途中で知事職を辞職した(ゼネコン汚職事件)。
平成9年(1997年)3月21日東京地方裁判所で懲役2年6ヶ月、追徴金1億2千万円の実刑判決を受け、静岡刑務所で服役。
釈放後、しばらく政治から離れていたが、平成13年(2001年)10月の小選挙区宮城4区補欠選挙に無所属で立候補し、次点で落選したものの4万8871票を獲得。平成15年(2003年)第43回衆議院議員総選挙にも立候補し、この選挙も次点で落選したが6万1200票を獲得した。
平成18年(2006年)後援者に推される形で大崎市長選挙に立候補することを表明する。宮城県議会議長を務めた伊藤康志と事実上の一騎打ちとなり、3万7139票を獲得し、伊藤に肉薄したが落選した。地元マスコミの分析によると、後援組織が高齢化し、若年有権者の票を取り込めなかったことが敗因であるという。
[編集] 関連項目
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