杉浦忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年9月17日 - 2001年11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
目次 |
[編集] 来歴・人物
立教大学時代、同期の長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)、本屋敷錦吾(阪急ブレーブス)と三人で「立教三羽ガラス」と呼ばれ、1958年、南海ホークスに入団。
もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時肩を故障してアンダースローに転向した。このため、その投球フォームは下から投げつつも肘から先の使い方が上から投げていた頃そのままであり、これがボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がアンダースロー投法にぴたりとはまり、流れるようなフォームから威力抜群の快速球を生む要因となった。「手首を立てたアンダースロー」といわれたフォームは当時シーズン30勝を挙げた巨人の大友工を手本にしたといわれている。東京六大学野球通算36勝(立教OBとして最多)の大半(28勝)は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。早大相手にノーヒットノーランも達成した。
1年目27勝をあげて新人王。2年目の1959年は38勝をあげて南海のリーグ優勝に貢献し、シーズンMVP(投手5冠)、迎えた日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血豆をおして4連投して4連勝という空前絶後の大活躍で南海を初の日本一に導き、シリーズMVPに輝いた。このとき記者に囲まれた杉浦が「一人になって泣きたい」と語ったのは有名。
その後もエースとして活躍したが、連投による血行障害の影響で徐々に成績は下降していく。長いイニングが投げられなくなった選手生活の後半は主に抑えの切り札として活躍した。実質球界初の「ストッパー」は彼だという声もある。
1970年に引退。1971年3月大阪球場での巨人とのオープン戦が引退試合として行われ、親友・長嶋茂雄の打席のところで登板。長嶋は記者の質問に「思い切り振って三振するよ」と答えたが、結果は引退試合の「お約束」である三振ではなく、痛烈なセンター前ヒットであった。これが長嶋の餞であり、友情の象徴とも言われる。杉浦はこのことを振り返り、「彼(長嶋)が、マジで向かってきてくれたことに、自分は凄く嬉しかったし、誇りを感じる。トンボが止まるようなヘナヘナボールだったら、彼は空振りして、三振したんじゃないかな」と語っている。通算187勝106敗。その後、毎日放送の解説者、近鉄バファローズの投手コーチを経験。
1986年に南海監督に就任、1987年は9月初めまで南海久々の優勝争いを演じた。1988年にチームはダイエーに売却され福岡に移転。福岡ダイエーホークスの初代監督となったが1989年限りで退任。その後は1990年にフロント入りし、1994年に退職。
後は、九州朝日放送の解説者を務め、「仏の杉浦、鬼の河村」で人気を博す。柔らかい、穏やかな語り口から人気を得たが、柔らかいながらも時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーはマイクの前のジェントルマン。また後年は球界の紳士とも紹介されていた。1999年に南海の後身であるダイエーが優勝を決めた試合でのラジオ放送では「一人で中州で酒を飲みたい」と中継内でコメントした。
また2001年よりプロ野球マスターズリーグ、大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。3試合のみ代理監督を務めた。2001年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた札幌市内のホテルで急逝した。享年66。その功績を称え、マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」に名を冠している。
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1958年 | 南海 | 53 | 14 | 1 | 3 | 27 | 12 | 299 | 235 | 11 | 85 | 215 | 68 | 2.05(4) |
1959年 | 南海 | 69 | 19 | 9 | 9 | 38 | 4 | 371.1 | 245 | 17 | 46 | 336 | 58 | 1.40(1) |
1960年 | 南海 | 57 | 22 | 4 | 8 | 31 | 11 | 332.2 | 266 | 28 | 49 | 317 | 76 | 2.05(2) |
1961年 | 南海 | 53 | 12 | 1 | 1 | 20 | 9 | 241.2 | 202 | 24 | 41 | 190 | 75 | 2.79(4) |
1962年 | 南海 | 43 | 6 | 1 | 1 | 14 | 15 | 172.2 | 165 | 12 | 41 | 96 | 59 | 3.07 |
1963年 | 南海 | 51 | 9 | 1 | 3 | 14 | 16 | 252.2 | 217 | 30 | 47 | 156 | 74 | 2.63(7) |
1964年 | 南海 | 56 | 9 | 1 | 3 | 20 | 15 | 270.2 | 253 | 28 | 61 | 162 | 91 | 3.02(13) |
1965年 | 南海 | 36 | 3 | 0 | 0 | 8 | 1 | 111.1 | 85 | 10 | 18 | 82 | 27 | 2.19 |
1966年 | 南海 | 27 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 51 | 42 | 6 | 3 | 39 | 14 | 2.47 |
1967年 | 南海 | 45 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 98.1 | 82 | 9 | 18 | 68 | 26 | 2.39 |
1968年 | 南海 | 41 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | 111 | 100 | 8 | 36 | 53 | 33 | 2.68 |
1969年 | 南海 | 30 | 1 | 0 | 0 | 2 | 7 | 65.1 | 68 | 8 | 19 | 33 | 30 | 4.15 |
1970年 | 南海 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 35.2 | 28 | 4 | 12 | 9 | 11 | 2.75 |
通算成績 | --- | 577 | 95 | 18 | 28 | 187 | 106 | 2413.1 | 1988 | 195 | 476 | 1756 | 642 | 2.39 |
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最優秀選手 (1959)
- 新人王 (1958)
- 最多勝 (1959)
- 最優秀防御率 (1959)
- 最高勝率 (1959)
- 最多奪三振 2回 (1959、1960)
- ベストナイン (1959)
- 野球殿堂入り (1995)
- 日本シリーズ最高殊勲選手 (1959)
- オールスターゲーム出場 6回 (1958~1961、1964、1965)
- 54.2イニング連続無失点 (1959年9月15日~10月20日)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | 昭和61年 | 6位 | 130 | 49 | 73 | 8 | .402 | 21.5 | 136 | .251 | 4.46 | 51歳 | 南海 |
1987年 | 昭和62年 | 4位 | 130 | 57 | 63 | 10 | .475 | 16 | 132 | .261 | 3.86 | 52歳 | |
1988年 | 昭和63年 | 5位 | 130 | 58 | 71 | 1 | .450 | 17.5 | 162 | .267 | 4.07 | 53歳 | |
1989年 | 平成元年 | 4位 | 130 | 59 | 64 | 7 | .480 | 11 | 166 | .257 | 4.74 | 54歳 | ダイエー |
- ※1986年から1996年までは130試合制
- 監督通算成績 520試合 223勝271敗26分
[編集] エピソード
- 1948年オフ、別所昭(毅彦)が南海から巨人に移籍。その経緯を「なんと汚いんだ」と思うようになって以来、アンチ巨人になったという。
- 学生時代、先輩である大沢啓二に長嶋茂雄ともどもよく面倒を見てもらった。大沢の行動は無論二人を獲得したい南海や親分鶴岡一人の意向によるものだったが、結果は長嶋は巨人へ、杉浦は南海へ。
- 南海入りに積極的だったのは長嶋の方だったようで、「杉浦、南海はいいぞお!電車が球場の真下まで走ってるんだぞ」と長嶋が熱烈に杉浦を誘い、杉浦は南海入団の意思を固めた。ところがその直後に長嶋が「杉浦ごめん、やっぱりオレ巨人に決めた。巨人は最高の球団だ」と巨人入り。一方、杉浦は「男に二言はありません」の名台詞で決意を変えることなくそのまま南海に進んだ。二人の性格をよく示すエピソードであるといえる。
- 打者として対戦してみたい投手は自分自身。自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいからと云う。
- 南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーのスピーチで「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」と南海の幕引きに杉浦らしい名言を残した。
- ダイエー初優勝の翌日のテレビ中継では、杉浦は副音声での解説を担当。和田安生アナウンサー(当時)と「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかいいもんやな」と話している。
- カラオケの十八番は、志賀勝の「女」であった。冒頭の「志賀勝や!」の台詞部分を「杉浦や!」に変えて歌っていたという。
- 自宅が老朽化し、家族が家の建て替えを提言した時、杉浦は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。南海でエースを張っていたときに購入した家であり、物持ちが良く、質素を好む杉浦らしいエピソードの一つである。
- 本願寺堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークス球団旗と球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。
[編集] 関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。
カテゴリ: 日本の野球選手 | 立教大学野球部の選手 | 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 | 野球監督 | 野球殿堂 | 野球解説者 | 愛知県出身の人物 | 1935年生 | 2001年没