オリックス・バファローズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チーム名 | オリックス野球クラブ、オリックス・バファローズ |
加盟団体 | パシフィック・リーグ |
創設年度 | 1936年 |
チーム名の遍歴 | 阪急軍(1936年~1946年) →阪急ベアーズ(1947年) →阪急ブレーブス(1947年~1988年) →オリックス・ブレーブス(1989年~1990年) →オリックス・ブルーウェーブ(1991年~2004年) →オリックス・バファローズ(2005年~) |
フランチャイズの遍歴 | 兵庫県(1952年~2004年)→大阪府・兵庫県(2005年~) ※球団事務所所在地は大阪市(2006年11月20日より) |
本拠地 | 京セラドーム大阪(メイン本拠地) 神戸スカイマークスタジアム(サブ本拠地) |
収容人員 | 京セラドーム=36477人 スカイマーク=35000人 |
オーナー | 宮内義彦 |
親会社 | オリックス |
監督 | テリー・コリンズ |
タイトル | リーグ戦:12回、日本シリーズ:4回 |
(優勝年度) | (リーグ戦)1967、1968、1969、1971、1972、1975、 1976、1977、1978、1984、1995、1996 (日本シリーズ)1975、1976、1977、1996 |
プレーオフ | 5回 - 2勝3敗(太字は勝利した年) 1973、1974、1975、1977、1979 |
オリックス・バファローズ(Orix Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。2軍の球団名はサーパス(本拠地はあじさいスタジアム北神戸)である。
このページで取り上げる球団の歴史や各種チーム記録等は存続球団の阪急→オリックスの分について触れるが、解散球団の近鉄のそれらについては大阪近鉄バファローズを参照。
目次 |
[編集] 球団の歴史
[編集] 阪急軍時代
- 1936年阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)が以前に所有していたプロ球団の宝塚運動協会を母体に、大阪阪急野球協会(おおさかはんきゅうやきゅうきょうかい)を設立し球団名阪急職業野球団(はんきゅうしょくぎょうやきゅうだん、阪急軍とも)が発足(阪急の小林一三社長が、阪神電鉄の球団大阪タイガースに対抗し結成した。企業名を冠する最初の球団であった)。宝塚運動協会当時のメンバーや、六大学野球のスター選手である山下実、宮武三郎らを集めて結成した。本拠地を暫定的に宝塚球場とした。
- 1937年西宮球場完成に伴い西宮に移転。
- 戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946年のリーグ戦再開には参加。
[編集] 暗黒時代
- 1947年のニックネーム導入に際し、まず「熊」をイメージした阪急ベアーズ(Bears)と改称するが、Bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があって縁起でもないということで、5月に阪急ブレーブス(Braves)と改める。「ブレーブス」のニックネームは公募で決まったが、これはアメリカメジャーリーグのボストン・ブレーブスに由来している。
- 1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。ところがこの時に捕手の日比野武・楠協郎・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。
- 1952年、西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。このころより、梶本隆夫、米田哲也といった名投手2人を擁するもののチームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。
- 1963年には球団史上初となる最下位に転落した。
[編集] 黄金時代
- 1967年、西本幸雄監督の下で長池徳士、ダリル・スペンサー、足立光宏らが活躍、リーグ初優勝。1967年~1969年、1971年~1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツを倒すことができなかった。
- 1975年、2シーズン制で、阪急は前期優勝、後期最下位という成績。プレーオフで近鉄バファローズを3勝1敗で下したものの通年成績は64勝59敗7分、勝率.520で史上最低勝率でのリーグ優勝となった(それまでの最低記録は1973年読売ジャイアンツの66勝60敗4分、勝率.524)。
- 1975年の日本シリーズに出場し上田利治監督の下、山口高志、山田久志、加藤英司、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムス、福本豊らの活躍で初の日本一に輝き、1977年まで3年連続日本一、1978年まで4年連続リーグ優勝を達成。球団の黄金期となる。
- 1978年の日本シリーズでは広岡達朗率いるヤクルトスワローズと対戦したが3勝4敗で敗れシリーズV4は果たせなかった。またこのシリーズ第7戦では上田が1時間19分の猛抗議を行った。
- 1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは裏腹に、球団経営は悪化の一途を辿った。
- 1984年、ブーマー・ウェルズが打率.355、本塁打37、打点130の成績で外国人選手として初の三冠王に輝く。チームも75勝45敗10分で2位ロッテオリオンズに8.5ゲーム差を付けて優勝したが、これが「阪急」としての最後の優勝となった。
- 1988年、シーズンオフに阪急電鉄がオリエント・リースに球団を譲渡し、黄金期を支えた阪急の顔ともいうべき福本、山田が引退した。チーム名は親会社が1989年に社名を変更する関係で、オリックス・ブレーブスに改称。オリックスブルーとブレーブスゴールデンイエローを基調にしたユニフォームとなる。阪急側からの球団譲渡の条件を満たすため、その後2年間は「ブレーブス」の愛称と西宮球場の使用が継続された。
- また、1988年に完成した神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を1989年から準本拠地とすることも発表された。完成した1988年は5月の対南海ホークスとの1試合のみだった主催試合がこの年は14試合、1990年も13試合組まれた。当初1989年はダイエー戦は13試合を全て神戸で行う予定だったが、雨天中止のため2試合は西宮で行われた。これは将来的な神戸市への移転を実施するためのファン確保の観点もあったが、1989年に関してはダイエーのメインオフィスが神戸市にあることも踏まえ、ダイエー側が神戸を準本拠地にしたいという意向もあった事も踏まえたものといわれる(但し既に他球団の本拠地がある都道府県で試合をする場合には、その当該球団〔この場合はオリックスと阪神タイガース〕の2球団の承認が必要であるが、阪神が反対したため神戸でのダイエー主催試合は承諾できなかった)。
- 球団譲渡の最大の理由が阪急西宮北口駅前と阪急梅田駅周辺の再開発を迫まれた為、その資金確保の為球団譲渡をせざるを得なかったと言う説もある。
[編集] ブルーウェーブ時代
- 1991年、神戸に本拠地を移し、一般公募により愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。上田利治の監督退任などで「脱阪急化」路線が進んだ(上田の後任監督は神戸出身の土井正三)。
- 1994年、仰木彬が監督に就任。この年イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立
- 1995年、1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸でのゲーム開催が危ぶまれた。しかし、「がんばろうKOBE」を合言葉にチームが団結。チームは勢いに乗り、球団譲渡後初のリーグ制覇を果たした。翌1996年にもリーグ2連覇達成、日本シリーズでは長嶋巨人を4勝1敗で倒し、地元神戸で悲願の日本一に輝いた。観客動員数ともにこの年が「ブルーウェーブ」のピークとなり、以降観衆も地元の復興とともに徐々に減少していく。大きな要因に、イチロー頼りだった球団、首脳陣の姿勢にある。
- 2000年、2軍の独立採算を目指し、2軍のチーム名をサーパス神戸とする。
- 2000年オフ、イチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。
- 2001年、仰木が勇退。
- 2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と深刻な投高打低に陥り39年ぶり2度目の最下位。翌2003年は石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が崩壊し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点、チーム防御率も5.95を記録するなど眼を覆いたくなるような内容で2年連続最下位となる。
- 2003年、本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。
- 2004年、前年まで西武ライオンズを率いた伊原春樹を監督に招聘、村松有人をFAで獲得するなど積極的にチーム改革に挑むも投手陣の崩壊は止まらずに3年連続最下位。近鉄との球団統合もあり、伊原もこの年限りで中途にして辞任する。
- 2000~2002年のドラフトで契約金ゼロ(+出来高制)の選手を入団させ話題になる。しかし一時の話題にはなったものの故障などもありほとんど戦力となることはなく中島俊哉(現:東北楽天イーグルス所属)ただ一人を残して他全員が2005年までにプロ野球界を去った。のちに球団ゼネラルマネージャーに就任した中村勝広(現同球団SA)はこのことを「プロでやれる見込みのない選手に甘い夢を見させ、本人の人生を狂わせるようなことをしてはならない」とはっきり批判しており、以後は契約金ゼロで入団した選手はいない。
- 2002年から最後の年となる2004年まで、背番号から0番と00番を除外・廃止している。その後、0番と00番は合併によりオリックス・バファローズとなってから復活した(2005年は00番が五島裕二、0番が福留宏紀だった。なお2006年は00番が軒作、0番が森山周)。
[編集] バファローズ時代
- 2004年、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、12月1日付でオリックス・バファローズとなった。球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。
- 近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになっている。
- ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、同じく神戸も本拠地に据えながら、両球場共に30試合余りを開催。2005年、Yahoo!BBスタジアムはネーミングライツ契約切れとソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、神戸スカイマークスタジアムに改められた。
- 2004年9月、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年~1992年:近鉄監督、1994年~2001年:オリックス監督)が監督に復帰。史上最年長・69歳の監督としてデビュー(2005年4月29日に70歳の誕生日を迎え、史上初の70歳台の監督となった)。
[編集] 2005年
- 2005年、合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰によりチームの成績は連続最下位から脱出に成功、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをした結果4位でシーズンを終える。
- 仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に逝去)。2006年シーズンからは中村勝広GMが監督として指揮を執る事が決まった。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。
- 12月20日、読売ジャイアンツを構想外となった清原和博がオリックス入りを発表。翌21日には、ドジャーズ3A中村紀洋(2006年オフに自由契約)が、オリックス・日本球界復帰を発表する。
- 12月19日、プロ野球実行委員会はオリックスの専用球場を2006年度からスカイマークスタジアムに変更する事を承認した。しかし、大阪ドームとのダブルホームタウンの変更はせず、双方の球場で34試合ずつを主催する。その後オリックス(正式には子会社のオリックスリアルエステート)が大阪ドームの施設を買収する方針を固めた。(2006年9月1日付で買収された)[1]
[編集] 2006年
- 2006年、当初は3位タイだったものの交流戦でチームが失速(交流戦最下位に終わってしまう)、主軸に怪我人が続出し苦しい戦いを強いられることになる。8月27日には日本ハム戦敗戦で、7年連続Bクラスが確定。9月27日の最終戦終了後、成績不振の責任を取って中村勝広監督が辞任した。52勝81敗3分けの5位、勝率.391に終わった。なお、北海道日本ハムファイターズが優勝したため、その時点で、新設の楽天以外のパシフィック・リーグ5球団で最も優勝から遠ざかっているチーム(1996年の優勝から10年)となった。
- 10月6日、元エンゼルス監督で、ドジャース育成部長であるテリー・コリンズが新監督として就任すると球団が発表。
- 11月20日 これまで神戸市(神戸総合運動公園野球場内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転し、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)をここに集約。なお神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小する。
- 関西地区には常に複数球団が存在したため、阪急時代から人気不足に悩まされてきた(特に阪神タイガースとは本拠地が同じ西宮市であり、この事や阪神偏向の在阪マスコミの姿勢も追い討ちをかけるような状況であった)。パ・リーグ加盟当初は南海、テレビ中継の開始以降は阪神の陰に隠れ、黄金時代であっても人気が伸び悩んだ。アニマル・レスリーやイチローがいた頃は、これらの選手個人が注目を浴び、チームの人気(観客動員、マスメディアへの登場)に結びついたが、継続的なファン獲得には至らなかった。こうした中で球団はボールパーク構想を日本の球界でいち早く取り入れるなど、地域密着型の球団経営を行うことで地元ファンを獲得することに力を入れたものの、その集客力は当時弱小球団だった阪神タイガースに遠く及ばず、万年赤字であった近鉄球団との合併問題では悪玉とされてしまう。
2006年に阪神タイガースの親会社である阪神電鉄の村上ファンド株問題に絡み、阪神電鉄と経営統合し事実上の親会社となったのは、皮肉にもかつての親会社阪急電鉄である。
[編集] 2007年
- オフには球団ともめた中村紀洋が退団し、キャンプでは清原が再手術を強いられるなど2007年シーズンも苦戦が予想されるが、オープン戦で由田慎太郎や大引啓次といった若手の活躍で阪神相手に開幕2連勝するなど戦力の底上げは徐々に出来つつあり新たに監督に就任したテリー・コリンズの手腕が注目される。
- 2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。
[編集] 注
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 12回
- (1967年~1969年、1971年、1972年、1975年~1978年、1984年、1995年~1996年)
- 日本一 4回
- (1975年~1977年、1996年)
- Aクラス 29回
- (1944年、1964年、1967年~1969年、1971年~1979年、1981年、1983年~1984年、1986年~1987年、1989年~1999年)
- Bクラス 37回
- (1936~1943年、1946年~1952年、1954年、1955年、1957年、1959年~1963年、1965年、1966年、1970年、1980年、1982年、1985年、1988年、2000年~2006年)
- 最多勝 88勝(1956年)
- 最多敗 92敗(1963年)
- 最多引分 11分(1971年、1979年)
- 最高勝率 .678(1978年)
- 最低勝率 .353(2003年)
- ※リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 40.0ゲーム(1959年)
- 最高得点 758点(1985年)
- 最多本塁打 184本(1980年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .285(1994年)
- 最低打率 .185(1943年)
- 最高防御率 2.57(1940年)
- 最低防御率 5.95(2003年)
[編集] 歴代本拠地
- 1936年 - 宝塚球場
- 1937年~1990年 - 西宮球場(阪急西宮スタジアム)
- 1991年~2004年 - Yahoo!BBスタジアム(2002年まではグリーンスタジアム神戸)
- 2005年~ - 大阪ドーム(2006年7月、京セラドーム大阪に改称)、神戸スカイマークスタジアム(2005年、Yahoo!BBスタジアムから改称)
[編集] スポンサー
- オリックス(袖:1989年~、ヘルメット:2000年代の初め)
- 近畿日本鉄道(袖:2005年~2007年)
- アトラス(テレビゲームメーカー)(ヘルメット:2004年~2005年)
- 京セラ(ヘルメット・ユニフォーム:2006年3月~2010年度シーズン終了時まで)
[編集] 歴代監督
太字は優勝達成監督。
- 1936年~1937年 - 三宅大輔
- 1937年 - 村上実(第1次)
- 1938年~1939年 - 山下実(第1次)
- 1939年 - 村上実(第2次)
- 1940年 - 山下実(第2次)
- 1940年~1942年 - 井野川利春
- 1943年~1947年 - 西村正夫(第1次) ※1
- 1947年~1953年 - 浜崎真二
- 1954年~1956年 - 西村正夫(第2次)
- 1957年~1959年 - 藤本定義
- 1959年~1962年 - 戸倉勝城
- 1963年~1973年 - 西本幸雄
- 1974年~1978年 - 上田利治(第1次)
- 1979年~1980年 - 梶本隆夫
- 1981年~1990年 - 上田利治(第2次) ※2
- 1991年~1993年 - 土井正三 ※3
- 1994年~2001年 - 仰木彬(第1次)
- 2002年~2003年 - 石毛宏典
- 2003年 - レオン・リー
- 2004年 - 伊原春樹
- 2005年 - 仰木彬(第2次) ※4
- 2006年 - 中村勝広
- 2007年 - テリー・コリンズ
- ※1 ここから阪急ブレーブス
- ※2 ここからオリックス・ブレーブス
- ※3 ここからオリックス・ブルーウェーブ
- ※4 ここからオリックス・バファローズ
[編集] 永久欠番
- 無し
[編集] 準永久欠番
- 51:イチロー
[編集] 歴代の球団歌・応援歌
- 阪急軍
- 阪急の歌
- 阪急ブレーブス
- オリックス・ブレーブス
- オリックス・ブルーウェーブ
- 輝け潮流
- ビクトリーマーチ(歌:マリンサイド・ウォーカーズJR.)
- リトル☆ネプチューン(歌:マリン・ウォーカーズ)
- オリックス・バファローズ
- SKY(歌:MEGA STOPPER) - 7回裏攻撃前と試合に勝利した後流れる
- PLAY BALL(歌:OUTSIDE SIGNAL) - 試合開始前に流れる(2005年上半期に使用)
- BLUE SPIRITS-蒼きフィールドの戦士たち-(歌:OBSOUL)
- PLAY BALL(歌:MEGA STOPPER) - 試合開始前に流れる(2005年下半期より使用、上記OUTSIDE SIGNALのものとは別の曲)
- ウイニングラン(歌:Queen's Tears Honey) - 2006年下半期より使用
[編集] チームの特徴
[編集] 球団名
- 戦前の阪急軍の球団旗はキャッチャーミットとボールが描かれており、ミットに「OSAKA(大阪)」と「NIPPON(日本)」、ボールに「HANKYU(阪急)」と書かれていた。戦時中は英語禁止令が出たため阪急にも球団旗の変更命令が出されたが、阪急は「『OSAKA』『NIPPON』『HANKYU』はローマ字であって、英語ではない」と拒絶した。この球団旗は愛称がブレーブスになるまで使用された。
[編集] マスコット
- 球団マスコットの歴史は古い。1981年から日本ハムファイターズのギョロタンに次いで日本で2番目となる球団マスコット「ブレービー」を採用。西宮球場での試合中、5回裏終了時にスクーターでフィールドを駆け抜ける姿は新鮮であった。ブレービーは1990年まで使われた。また、1988年にはブレービーの子供として「勇太」が登場したが、同年オフにオリエント・リースに球団が譲渡されたのに伴い、僅か1シーズンのみで消滅した。
- ブルーウェーブとなった1991年からは「ネッピー」(背番号111)が登場。ネッピーは海神ネプチューンの息子で、年齢は13歳という設定。また1999年からは「海賊の娘で、嵐で船が難破して海で遭難していたところをネッピーに助けられた」という設定で、「リプシー」(背番号222)が登場。いずれもデザインは松下進。球団が大阪近鉄バファローズと合併した2005年以降もネッピーとリプシーが継続使用されているが、旧近鉄ファンを中心に「球団愛称がバファローズとなったのになぜ牛と関係のないマスコットを使うのか」と批判の声も根強く残っている。
- ブレービー・ネッピー共に島野修が1998年まで演じていた。
- その他、ブルーウェーブ時代に「ブルーパイレーツ」という海賊4人組のマスコットがいた。
[編集] 応援スタイル
[編集] 戦績
- 2001年までは、阪急時代を含めて最下位回数が1回のみ(1963年、阪急時代)と巨人(1975年)と並んで当時の12球団中最少であり、また最も最下位から遠ざかっていた球団であった。2006年シーズン終了時点で、12球団で最も最下位から遠ざかっているのは巨人(1回)である。
[編集] 営業・ファンサービス
- 神戸移転後、プロ野球初の男性DJの採用、内野グラウンドの天然芝化、内野スタンドのネット撤去、フィールドシートの設置、2004年からは「Take Me Out to the Ball Game」のヤフーBBスタジアム版を演奏など、メジャーリーグのボールパークの雰囲気に近付けるファンサービスを実施したが、観客動員数向上への目立った効果は出なかった(なおフィールドシートの名称が当初「殿馬シート」であったとする俗説があるが、実際には「ドカベン」とのコラボレーションであった「ドカベンチケット」内のみでの名称であり、球場ではこの名称は使用されなかった)。
- 地元大阪と神戸で開く主催ゲーム(オープン戦・公式戦いずれも)では、地元の企業・団体が1シリーズ(2~3連戦単位)で協賛し、球場のスタンド(大阪は2階席のバックスクリーン、神戸は左中間・右中間のバックスクリーン寄り)に「(協賛スポンサー名)シリーズ」の看板を掲げている。
- 神戸でのナイターは原則18時開始だが、2005年度から本拠地に加えた大阪ドームでは会社や学校帰りのファンにより多く観戦してもらいたいという趣旨から18時15分からの試合開始に設定していた(交流戦の巨人戦1試合のみ18時開始)が、2006年は両球場とも18時からの開始となった。また大阪・神戸のホームゲームではその試合でオリックスが勝利をした場合、1塁側ベンチからクラッカー(キャノン砲)が発射され、紙テープで祝福するのが恒例となっている。
- 神戸で試合をする場合、5回と6回のイニングスインターバルにアトラクションとして花火ナイターが開かれる。基本的には毎回300発だが、交流戦やシーズン最終戦(神戸での最終戦)など特別な日には「スーパー花火ナイター」としてそれよりも多めに花火を打ち上げる。
- 2005年度から吉本興業と業務提携を結んだ。3月27日の朝日放送「なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!」(NGKで3月9日収録)に仰木監督や選手が劇中に出演し、チームをPRした。また3月28日のホームゲーム開幕戦・ロッテ戦(大阪ドーム)では、国歌斉唱をDonDokoDonの山口智充が担当した。ちなみに、吉本興業は阪神タイガースとも業務提携をしたことがある。これを当時選手として目の当たりにしていた阪神の岡田彰布監督は「そんなことはうちがやって失敗した。どこも考えていることは同じ」と批判した。
この業務提携は2006年度も「よしもとプロデュース・Bsミックスモダン大作戦」として継続。3月31日の関西テレビ「NGKにバファローズがやってきた! ミックスモダン大作戦~結束~」(NGKで3月9日収録)には中村勝広監督・清原和博・中村紀洋らが出演してチームをPR。4月2日の大阪ドーム開幕戦(北海道日本ハムファイターズ戦)では友近が国歌斉唱、また4月4日の千葉ロッテマリーンズ戦では池乃めだかが国歌斉唱、レイザーラモンHGが始球式を行った。 - 2005年8月、魔法戦隊マジレンジャーとのコラボレーション企画が実施。これは仰木彬監督の采配が「仰木マジック」とマスコミに称されていたことと、マジレンジャーが様々な魔法を使って悪を退治していくという物語のつながりから実現したもので、マジレンジャーの映画化記念イベントを兼ねて企画された。
[編集] その他
- 1936年の公式戦スタート時から存続する伝統ある球団でありながら、OB監督にこだわらず積極的に外部の血を受け入れる傾向にある。このため、生え抜き監督は選手経験のない村上実を除くと、山下実・井野川利春・浜崎真二・西村正夫・梶本隆夫の5人しかいない。また井野川と浜崎は入団と監督就任が同時であることからも、OB監督にこだわっていないことがうかがえる。
- 兵庫県競馬組合の特別レースに協賛しており、2004年までは「ブルーウェーブ特別」として行っていたが、チームの合併と名称変更に伴い2005年から「バファローズ特別」にレース名を改めている。
[編集] ユニフォームの変遷
- 1936年 現在のホーム用にあたる白地に飾り文字、ビジター用にあたるユニフォームは紺が使われていた。
- 1937年~1940年 チームカラーがオレンジに変更される。また紺地に白のペンシルストライプが登場。
- 1940年~1944年 戦況の悪化により「H」マークを廃止。また、左袖には阪急の社章が入る。
- 1945年~1949年 「H」マークが復活。ビジター用に当たるグレーは「HANKYU」のロゴ。当時はペンキで描いていた。
- 1947年~1952年 ロゴの「H」マークが丸くなり、同時に独特の丸型背番号を採用。えび茶の「Braves」は1950年まで使用。
- 1951年~1954年 ペンシルストライプを復活。また、ロゴが赤茶に変更される。
- 1955年~1959年 アトランタ・ブレーブスを意識したホーム用ユニフォームが登場。同時にチームカラーが赤(阪急電車のカラー)に変更される。1957年から帽子のマークを変更。
- 1960年~1961年 「Braves」の書体が変更され1980年代初頭まで使われる。前立てラインが登場。また帽子のツバを赤に変更。
- 1962年~1971年 縦縞が初登場。この時代はマイナーチェンジが繰り返され、1969年にはビジター用の「HANKYU」のロゴが太くなり、1970年にはオレンジラインが入る。
- 1972年~1974年 カラーテレビの普及に伴い、カラフルなユニフォームの流行により、ニット製ユニフォームを採用し赤と黒のユニフォームを復活させる。また、プルオーバーとなりベルトレスに変更される。1988年まで基本スタイルが踏襲され、王者のイメージが強い。
- 1975年~1979年 袖とベルトレス・ズボンのラインが太くなる。1975年~1977年の3年連続日本一(1975年~1978年は4年連続リーグ優勝)になったゲンのいいユニフォーム。ビジター用はグレーからスカイブルーに変更。1977年からは背番号の上に選手のネームが入る。
- 1980年~1983年 アンダーシャツ・ストッキングを赤に変更。同時にボタン式となる。ホーム用は1984年にプルオーバーとなったが、ビジター用はボタン式を継続。(1981年より袖のラインの黒と赤がそれまでの逆となる)
- 1984年~1988年 帽子のマークが「H」から「B」に変わり、前面が白になってデザインが変わり、「Braves」と「Hankyu」(1985年から)の書体を変更。またゲンのいいプルオーバー・タイプを復活。左袖にはブレービーのワッペンがつき、背番号の書体が角型に。胸番号は丸文字のまま。
- 1989年~1990年 球団がオリックスに売却され、オリックス・ブレーブスに改称。チームカラーをオリックス・ブルー(ネイビーブルー)とブレーブス・ゴールデン・イエロー(ディープイエロー)に一気に変更。ビジター用のワッペンは1989年夏から変更。阪急時代の名残から、プルオーバーのVネックが継続された(往年のファンには歓迎された)。
- 1991年~2000年 本拠地の神戸移転とチーム名変更を機にロゴを「BlueWave」に変更。基本デザインは従来どおりのオリックス・ブルーと(ネイビーブルー)ブルーウェーブ・ゴールデン・イエロー(黄色)のユニフォーム。この間、右袖だけのワッペンだけのマイナーチェンジが繰り返される。
- 2001年~2004年 阪急時代から続いたプルオーバー・タイプを廃止しボタン式に変更。ゆったりした、スマートなデザインに。帽子やアンダーシャツの色などをより濃い紺色に、さらに前ラインが入りまた、背番号書体を変更した。
- 2005年 近鉄との合併によりオリックス・バファローズとなる。ユニフォームは「BlueWave」を「Buffaloes」に変更しただけでそれ以外は従来どおり。新しいユニフォームを見た旧近鉄選手やファンなどからの批判もあり、急遽大阪ドーム用のユニフォームを作成することに。
- 2006年~ 神戸用ホームユニフォームの帽子・胸ロゴも大阪用と同じ書体のロゴに変更。
[編集] キーワード
[編集] ホークスとの縁
[編集] ノーヒットありラン
- 戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手にノーヒットに抑えられながら2-1で勝った。4回裏に1点を先制されたものの6回・7回に犠打・エラー・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝ちしたもの。ノーヒットに抑えられながら得点をあげた試合(無安打有得点試合、「ノーヒットありラン」とも言う)は他に1939年の金鯱(8月3日、vsイーグルス・西宮)・1959年の巨人(5月21日、vs阪神・甲子園)・1964年の南海(5月13日、vs近鉄・大阪)があるが、勝ったのはこの時の阪急だけである。
- ちなみにこの試合での阪急の攻撃は以下のとおりである。
- 1回表(南海の先発投手は宮口):西村正夫投手ゴロ、山田伝3塁ゴロ、上田藤夫左翼フライ
- 2回表:山下好一2塁フライ、黒田健吾四球、岸本正治3塁ゴロで黒田2塁へ、田中幸男1塁ゴロ
- 3回表:日比野武遊撃フライ、重松通雄遊撃フライ、西村四球、山田1塁ファウルフライ
- 4回表:上田左翼フライ、山下2塁フライ、黒田遊撃フライ
- 5回表:岸本四球、田中投手前バントで岸本2塁へ、日比野捕手ゴロで岸本3塁へ、重松2塁フライ
- 6回表:西村四球、山田投手前バントを投手宮口がエラーして1・2塁、上田投手前バントで西村3塁・山田2塁へ、山下死球で満塁、黒田左翼犠牲フライで西村生還するも、山田3塁へ走り左翼手平井猪三郎-捕手中田道信-三塁手鶴岡一人の送球でアウト
- 7回表:岸本四球(ここで南海の投手が平野に交代)、田中3塁前バントを三塁手鶴岡が1塁に悪送球して岸本生還・田中3塁へ、日比野投手ゴロ、重松左翼ファウルフライ、西村左翼フライ
- 8回表:山田遊撃フライ、上田投手ゴロ、山下3塁ゴロ
- 9回表:黒田四球、岸本中堅フライ、田中遊撃ゴロで岸本2塁封殺、日比野の代打・石井武夫3塁ゴロ
[編集] 1試合最多得点、最多得点差勝利
- 1940年4月6日に西宮で開かれた南海との「近畿ダービー」で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。しかし2003年、これと同じ組み合わせ(オリックスvsダイエーとして)で2度も大量失点試合をしてしまった。まず7月26日に福岡ドームで7-26、続いて8月1日にヤフーBBスタジアムで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ以後の最多失点試合、並びに最多失点差敗戦試合記録となってしまった。ちなみにこの年はダイエー相手に6月17日に盛岡で11-21、9月14日にヤフーBBスタジアムで11-20で敗れている。同一カードでの20失点4試合はワースト記録。
[編集] パ・リーグでの最も遅い試合終了時間
- 1953年8月30日(西宮球場)での試合は当時パ・リーグの試合規定で23:45までの時限をオーバーしながら延長18回・23:54まで試合を続け、パ・リーグの最も遅い試合終了時刻を記録している。
[編集] 敵地でのホームゲーム
- 1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場であるため梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念してダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは3塁側、ビジターのダイエーは1塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが3塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはこの時だけである。
- オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合では試合終了後に花火が上がりヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気であった。オリックスファンからは、ダイエーの人気が高く多数の観客動員が見込める福岡で主催することにより、地元神戸のファンへのサービスよりも観客収入による営業面を優先させたとの批判も出た。
[編集] 初の台湾遠征
- 2002年5月14、15日にダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦が開催された。日本のプロ野球が海外で試合を行うのは戦後3回目(1961年5月20日の西鉄vs東映、1962年6月13~14日の阪急vs大毎が当時アメリカ合衆国の占領下にあった沖縄で行われた)であるが、台湾での公式戦は戦後初である。
[編集] 同一カード最多敗戦
- 先述のように2003年にはダイエー戦で20失点以上を4度も演じてしまったが、2004年はもっとひどかった。この年もオリックスは最下位であったが、特にダイエーには4勝23敗と大敗。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。プロ野球では1967年にサンケイが巨人に3勝23敗と負け越して以来37年ぶり4度目で、パ・リーグでも1961年に近鉄が南海に5勝23敗とされて以来43年ぶり2度目である。
- 今回のホークスアレルギーは2003年後半あたりから出始めた。2002年は13勝15敗と負け越したとはいえ健闘し、2003年も前半14試合は7勝7敗で乗り切るなど互角に渡り合っていたが、2003年後半になると投手陣が20失点以上を3度も演じるなど完全に崩壊し、4勝10敗と大きく負け越した。2005年も6勝13敗1分だったが、途中カード9連敗を喫し、2006年も7勝11敗2分と徐々に改善されてはいるが、まだまだ苦手意識が残っているようだ。
- ちなみに2004年のオールスター戦以降はダイエー戦10戦全敗。これについて当時監督だった伊原春樹は、「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。
[編集] 合計97歳の先発投手
- 1950年11月5日、西宮球場で開かれた、毎日オリオンズとの対戦での出来事。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。
- この当時の年齢は浜崎が48歳10ヶ月、湯浅が48歳1ヶ月で2人合せて96歳11ヶ月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。
[編集] 史上最大の成功ドラフト
- 1968年のドラフト会議は史上空前の大豊作で、現在でも「巨人と近鉄以外は大成功だった」と語り継がれるほどである。その中でも大成功を収めたのが阪急で、この年だけで3人の名球会選手を輩出している。
- 実はこの年、阪急の指名順は予備抽選で11位(最後から2番目)と決まっており、その点で運に見放されているかのように思われていた。事実この年最大の注目選手で巨人(指名順8位)入りを熱望していた田淵幸一(法政大学)は指名順3位の阪神に指名され、巨人から「田淵を指名できなかったら君を1位で指名する」と約束されていた星野仙一(明治大学)はその約束を反故にされ、指名順10位の中日に指名されていた。
- 「さすがにもういい選手はいないだろう」という雰囲気が漂う中、阪急が1位で指名したのは富士鉄釜石の下手投げ投手・山田久志。山田は翌年8月のプロ入り直後は2年越しの7連敗という苦しいスタートとなったが、背番号を25から17に変更した1971年から頭角を現し、長嶋茂雄や王貞治さえもなしえなかった3年連続MVPを獲得、1988年の引退までに284勝を記録した。
- 2位指名は松下電器の一塁手・加藤秀司。加藤は黄金時代の阪急をクリーンナップの一員として支えた。選手生活の後半はトレードが続き苦労したが、南海時代の1987年(加藤にとっての現役最後の年)に山田からの本塁打で名球会入りを達成した(最終的に2055安打)。
- しかし山田や加藤の活躍はある程度予想できたにしても、7位で指名した加藤の同僚・福本豊の活躍までは予想できなかった人が多かっただろう。入団当初の福本はただ脚が速いだけの選手だったが、ツチノコ型バットの導入によって打撃も向上し1番打者として定着。1984年には当時ルー・ブロックが持っていた通算盗塁記録を更新、「世界の盗塁王」と呼ばれるまでになった。また福本が1番に定着したことで、「福本が四球で出てすかさず盗塁、大熊(忠義)がバントで送って、加藤の犠牲フライで福本が生還」という、いわゆる「ノーヒットで1点を先制する野球」が対戦相手にとって脅威となった。福本は1988年の引退までに2543安打、1065盗塁の記録を残した。
- またこの年は、12位でクラレ岡山の外野手・門田博光を指名している。門田は入団を拒否して翌年のドラフト2位で南海に入団したが、1992年の引退までに2566安打を記録した。その門田はオリックスとなった後、1989~1990年の2年間在籍した。
- ちなみに1969年のペナントレースがスタートすると、当時の監督・西本幸雄はロッテの1位指名で入団した有藤通世を見て、「こんなええ選手もおったんか!」と驚いたという。
[編集] 競走馬vs盗塁王
- 阪急時代の1983年4月、西宮球場で開かれた試合のアトラクションで福本豊、バンプ・ウィリスの2選手と競走馬の脚比べと題された企画が行われた。しかし、競走馬は野球場の人工芝に慣れなかったのか全く脚が伸びず最下位となった(1着はバンプ)。また、簑田浩二選手も出場予定だったが、出場を取りやめた。
[編集] 東京での主催ゲーム
- 2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。これはこれまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京で主催ゲームを開催することにしたもので、オリックス・バファローズとなった翌2005年も東京での主催遠征(組み合わせは同じく日本ハム戦)を行った。しかし、ファンの数は日本ハムの方が多い。
- 2006年は東京ドームでの主催ゲームはなかったが、2007年は対西武ライオンズ戦2試合が東京ドームで行われる。西武が東京ドームでパリーグのチームと試合をするのは4年ぶりのこと。
[編集] 怒りの横断幕
- オリックスは阪急から球団を引き継いだ1989年から11年間Bクラスに落ちたことがなかったが、2000年以降は一転してAクラスに入れない弱小チームに成り下がってしまった。2002年から3年間はそれまで阪急時代の1963年の1回だけだった最下位に低迷する有様で、特に2003年はワースト記録も多かった。
- ファンもそうしたオリックスの現状に嫌気が差したのか、2003年9月19日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では、7回表にレフトスタンドに「宮内オーナー 日本経済再建の前にBW再建し、強いチームを返してください」という横断幕が掲げられた(「日本経済再建」とあるのは宮内が政府の規制改革・民間開放推進会議議長など、政府の経済再建に関わる会議の委員を務めていたため)。つい5~6年前(当時)までは優勝を争うほどのチームだっただけに、主力選手を次々と放出しながらもその補強を怠り、結果として低迷を招いたチームに対するオリックスファンの抗議だった(ただし実際のチームの全盛期は95年・96年のみである)。
- この後も、9月23日の日本ハムファイターズ戦でも横断幕が掲げられるなど、当時ファンの苛立ちは最高潮に達していたと思われる。
[編集] 珍記録ホルダー
- 先述の「ノーヒットありランでの勝利」以外にも、阪急時代には以下のような珍しい記録を作っている。
[編集] 押し出しで1試合8得点
- 1944年5月16日、西宮での産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。
- 7回表(産業の投手は森井茂):山田伝四球、上田藤夫投手ゴロ失策、野口明3塁内野安打、高橋敏左翼越え2塁打で山田・上田生還、阪田清春中堅前安打で野口生還、打者大平茂の時に阪田2盗、大平3塁ゴロで高橋本塁封殺、打者伊藤健一の時に大平2盗、伊藤1塁ゴロ野選、坂井豊司四球で阪田生還(産業の投手が井上嘉弘に交代)、笠松実四球で大平生還、山田四球で伊藤生還(産業の投手が松尾幸造に交代)、上田四球で坂井生還、野口四球で笠松生還、高橋三振、阪田2塁ゴロで野口2塁封殺
- 8回表:大平四球、伊藤四球、坂井1塁内野安打、笠松四球で大平生還(産業の投手が加藤正二に交代)、山田2塁ゴロ失策で伊藤生還、上田四球で坂井生還、野口三振、三木久一四球で笠松生還、阪田中堅前安打で山田生還、大平投手フライ、伊藤左翼前安打で上田・三木生還、坂井右翼フライ
[編集] 1イニング5連続ヒットで無得点
- 1963年8月14日に開かれた近鉄戦で阪急は1回裏、ロベルト・バルボン、岡嶋博治、戸口天従、中田昌宏、早瀬万禧の5者が連続ヒットを放ちながらも、バルボンは盗塁失敗、戸口のヒットで岡嶋が3塁進塁を図るもアウト。更に早瀬のヒットの時に戸口はホームでタッチアウトとなり無得点に終わる。
[編集] 1イニングノーヒットで5得点
[編集] ベースボール・モンキー
- 8月から始めたサービスでボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、広島のベースボール・ドッグに対抗したものである。であるが、登場した過去3戦中2戦(対北海道日本ハム戦、対東北楽天戦)はいずれも逆転負けという結果になり(但し、9月20日に千葉マリンで行われた対千葉ロッテ戦では1-0で勝利している)、縁起担ぎが強いプロ野球で来年から採用されるかは微妙である。
[編集] ホテルに残る「ブルーウェーブ」の名称
球団としての「ブルーウェーブ」の名称が消滅した現在でも、オリックスグループのホテル運営会社としてブルーウェーブ株式会社が存在し、現在でも全国11箇所で「ブルーウェーブイン」などのホテルを運営している。なお「ブルーウェーブイン」のロゴマークはブルーウェーブ球団のロゴマークが原型である。
[編集] 放送
[編集] テレビ中継
- 地上波
- 衛星放送
- BS:NHK衛星第1
- CS:主にJ SPORTS「J SPORTS STADIUM」。ほか一部の試合をアクティブ!ベースボールとしてスカイ・A sports+、GAORAでも放送する。
[編集] ラジオ中継
- ラジオ大阪 「ラジオ大阪ドラマティックナイター」(2005年は金曜日にも「オリックス・バファローズ ナイトスタジアム」として放送されていた)
- ラジオ関西 「ラジオ関西ジャイアンツナイター」(読売戦中心。オリックス戦は年間数試合のみ)
- ほかABCラジオ「ABCフレッシュアップベースボール」MBSラジオ「MBSタイガースナイター」でも予備カードで放送。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
00 軒作 | 0 森山周 | 2 的山哲也 | 3 村松有人 | 4 阿部真宏 | 5 清原和博 | 6 トム・デイビー | 7 水口栄二 | 8 タフィ・ローズ | 9 平野恵一 | 10 大引啓次 | 11 川越英隆 | 12 歌藤達夫 | 13 吉田修司 | 14 岸田護 | 15 加藤大輔 | 16 平野佳寿 | 17 香月良太 | 18 山口和男 | 19 金子千尋 | 20 山本省吾 | 21 吉井理人 | 22 ユウキ | 23 北川博敏 | 24 後藤光尊 | 25 チャド・アレン | 26 加藤康介 | 27 日高剛 | 28 小松聖 | 29 ダン・セラフィニ | 30 グレッグ・ラロッカ | 31 塩崎真 | 32 ランス・カーター | 33 高木康成 | 34 本柳和也 | 35 大久保勝信 | 36 下山真二 | 37 辻俊哉 | 39 鴨志田貴司 | 40 前田大輔 | 41 松村豊司 | 42 萩原淳 | 43 菊地原毅 | 44 鈴木郁洋 | 45 光原逸裕 | 46 迎祐一郎 | 47 延江大輔 | 48 阿部健太 | 49 中山慎也 | 50 大西宏明 | 52 坂口智隆 | 53 相川良太 | 54 一輝 | 55 岡田貴弘 | 56 柴田亮輔 | 57 筧裕次郎 | 58 長田昌浩 | 59 梅村学人 | 60 牧田勝吾 | 61 町豪将 | 62 勝 | 63 吉良俊則 | 64 田中彰 | 65 近藤一樹 | 66 由田慎太郎 | 67 横山徹也 | 68 仁藤拓馬 | 69 土井健大 | 99 吉川勝成 | 113(育成選手) 柴田誠也 | 114(育成選手) 宮本大輔
1 監督 テリー・コリンズ | 81 大石大二郎 | 83 神部年男 | 75 ジョン・ディーバス | 89 真喜志康永 | 74 松山秀明 | 85 別府修作 | 78 米村理 | 80 赤川貴弘 | 96 二軍監督 住友平 | 70 清川栄治 | 87 赤堀元之 | 76 大島公一 | 82 三輪隆 | 77 弓岡敬二郎 | 79 内匠政博 | 72 吉原孝介 | 88 安田昌玄 | 84 本屋敷俊介 |
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
---|---|
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | グッドウィル | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス |
中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | サーパス | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス |
日本シリーズ | オールスターゲーム | 日本野球機構・日本プロフェッショナル野球組織 | 日本プロ野球選手会 | 名球会 | 独立リーグ |