中内功
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中内 功(なかうち いさお、1922年8月2日 - 2005年9月19日)は実業家である。ダイエー創業者・元会長・社長・グループCEO。「いさお」は正確には「㓛(U+34DB、工偏に刀)」と書く。息子の中内潤は流通科学大学・学校法人中内学園の理事長。同じく中内正は元・福岡ダイエーホークスオーナーで、現在は読売ジャイアンツオーナー顧問。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 生い立ち
大阪府西成郡(現・大阪市西成区)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘であった。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医となった。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。
[編集] 戦前・戦中
旧制神戸三中(現兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年、兵庫県立神戸高等商業学校(後の神戸商科大学、現・兵庫県立大学経営学部・経済学部)を卒業。「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、いずれ戦地に赴かされる自分にとっては、まったく役に立たなかった」と卒業アルバムに記す。勉強はできる方ではなく大学受験に失敗、後に夜間大学を目指すが商売に専念する為に中退。1943年、幹部生として扱われる仲間を尻目に戦場の一線へ投げ込まれる。所属した大石正義中佐率いる陸軍部隊はフィリピン・ルソン島で玉砕、重症を負いながらも奇跡的に生還。この戦争体験は、後の人生観に少なからず影響を与えた。「人の幸せとは、まず物質的な豊かさを満たすことです」。
[編集] 戦後
復員した中内は、終戦直後の混乱期より家業の薬品販売で商才を発揮した。その出発は他の零細資本と同様に神戸の闇市からのものであった。この当時、労働運動と並んで消費者運動が非常に盛り上がりを見せつつあった。こうした機運は、神戸においても、そのある種独特の土地柄も関係し大きな運動のうねりとなった。つまり維新期の開港後の急速な近代化が招いた大量の低所得労働者層の流入を背景に形成された貧民街において、「貧民街の聖人」と呼ばれた賀川豊彦などの例に見られる。賀川は互助精神のもと生協運動を率いて、有力商人を介さない消費者主導の流通の確立に努めた。その結果に発足した神戸生協(当時)は、コープこうべとなった現在に至るまで全国の生協の中で最大規模を誇り、後のダイエーとその成立形態は異なるものの、神戸ほかでライバル関係となる存在である。またこうして消費者権利に目覚めた敏感な主婦たちは、主婦連を通じて団結して不買運動などを行っていた。こういった流通の変化を伴う消費者運動の盛り上がりを背景として、中内は流通改革を唱えることで「庶民の味方」として巧みに消費者の支持を取り付けていくことになる。
[編集] ダイエー創立
1957年に大栄薬品工業株式会社を設立し『主婦の店ダイエー薬局・本店大阪』を開店。大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に第1号店を開設した。当初は薬局で、後に食料品へと進出していった。千林での開店の翌年1958年には、早くも、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店[1]を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は定価を維持しようとする勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制の形で残り、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。また1964年に松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって勃発した『ダイエー・松下戦争』はあまりにも有名である。1994年の完全和解まで実に30年間を要した。
- ^ 後の「ダイエーさんのみや女館」さらに「ダイエーさんのみやオフプライス館」。中内はその後も三宮に集中出店し、1963年に開店しのちに「ダイエーさんのみやリビング館」となる店舗などとともに三宮に「ダイエー村」を形成し親しまれたが、1995年1月17日、阪神・淡路大震災被災により閉店した。
[編集] 事業の拡大
1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。1980年2月16日に日本の小売業界初の売上げ高一兆円を達成した。また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ウェンコジャパン、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタンなど子会社・別事業を次々と展開していった。また、イチケンやリクルート、忠実屋、ユニードなどを買収、1981年には高島屋の株式を10.7%を取得。グループ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携求めるが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)。ミシンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノウハウを子会社のダイエーファイナンスに導入した。さらに南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入するなど、グループを急拡大させた。このとき、中内はホークスについてよく知るためにホークスを扱った漫画「あぶさん」の作者、水島新司とホークスについて対談した。また、当時の経団連副会長に、それまでは格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となっていった。
[編集] 悲劇、そして迷走
しかし、息子に跡を継がせたいあまりに他社からヘッドハントした部下を辞職に追い込み、周囲を自分に近いイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が次第に露呈していった。一兆円達成から3年の1983年から三期連続で連結赤字をだしてしまう。ヤマハの社長であった河島博を総指揮官とし業績をV字に回復させるV革を行なう。1980年代に赤字からV字回復へと導いた平山敞は不遇な扱いを受けダイエーを去った一人であった。1990年代後半になって地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。さらに展開していたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代に取り残されていった。
[編集] 阪神大震災と凋落
1995年1月17日早朝、阪神・淡路大震災が発生。田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。フェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。この地震により、神戸にあったダイエー7店舗のうち、4店舗が全壊するなど関西発祥のダイエーの被害は甚大で、凋落が決定的となった。既にジャスコを経営するイオン、ローソンのライバルであるセブン-イレブンの親会社イトーヨーカドーなどが業界をリードするようになっており、世間から「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何も無い」と揶揄されるようになった。中内自身も晩年、「消費者が見えなくなっていった」と嘆くこともあった。
[編集] 辞任、奈落の底へ
2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。しかし遅すぎた決断であり、もはや売り場は荒廃し、あらゆる部門で問題が露呈していた。最後の株主総会では厳しい質問が続き、2時間36分の大荒れ総会となった。その中で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した後、まだ総会が終わっていないにも関わらず壇上を降りて去ってしまう一幕があり、会場はあっけにとられたが、「議長、中内さんがあんまり寂しすぎるわ! 拍手で送ってあげたい」との声があがり、再登壇した中内に満場の拍手が止まなかった。その午後、退任する中内と新経営陣の高木邦夫、そして平山がそろって記者会見を開いた。その席上、中内は完全に経営から退くことを表明。しかし、平山は「どうしたらダイエーはここまで悪くなるんだろう」と、かつてのカリスマの真横で言い放った。
[編集] 晩年・死去
その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園の学園長に就任。2004年12月には芦屋(兵庫)と田園調布(東京)にあった豪邸や所持する全株式を売却、名実ともにダイエーから決別した。個人的に多額の負債を抱え実質破産状態と伝えられる。翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後、神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、その療養中の同年9月19日に神戸市立中央市民病院において死去した。倒れてから亡くなるまで、意識が戻ることは無かったという。享年83。天下を取った男には、あまりにも寂しい最期となったが、自分自身の希望であった「生涯現役」をやり遂げられた人物であった。田園調布の自宅・芦屋の別宅が銀行に奪われていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができずに大阪市此花区の中内家が眠る正連寺にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。葬儀は、流通科学大学の学園葬で行われたが、(株)ダイエーは、社葬を行う表明をしなかった。
[編集] 功績
最後には経営不振に陥らせてしまったが、それでもダイエーを小売業日本一へと押し上げたという実績は否定できるものではなく、「昭和を代表する、偉大な経営者」であったと言える。また、日本のチェーンストアの成長を常に先導し続け、現在の日本流通業界の基礎を築き上げたという点は忘れてはならない。
その功績は高く評価され、流通業界初の勲一等瑞宝章を受賞している。
また、阪神大震災時には、国より迅速に物資流通に奔走し、自らの持つダイエーネットワークを用いた実質的な支援を行ったという面も特筆すべきである。
一方、福岡に、ホークスのホームグラウンドを移し、当地に球団の人気を定着させたことは賞賛に値する。チームの低迷期には「同好会は終わった」と書かれた横断幕を送るなど、檄を飛ばした。自身の座右の銘「ねあか、のびのび、へこたれず」は、多くの選手の心に響いている。福岡Yahoo!Japanドームには「For the customers」と書かれた直筆の色紙が今でも飾ってある。
[編集] 中内功の志
ダイエーが拡大を続け、世間がバブル期に入っていた1988年4月、神戸・学園都市に長年の悲願であった流通科学大学を開学、大学職員は全員ダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。また1988年9月、自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設新神戸オリエンタルシティを誕生させた。
2000年に流通科学大学では職員が大学籍になり、新神戸オリエンタルシティも、2004年に売却されダイエーの手から離れたが、建物の一角に現在も取り付けられている石板には、彼の直筆で次の言葉が刻まれている。
- 「よい品を どんどん 安く より豊かな 社會を 一九八八年 中内功」
[編集] ホークス株
長年、ホークスのオーナーを勤めた中内氏だが、ダイエーグループの経営から完全に手を引いた時期に、次男の中内正に、自身が所有していたホークス株を1株1円にて譲渡した。その当時、マスコミたちはネタにして批判などを各メディアで報道されたが、ホークスファンたちからは、むしろ歓迎された。メディアの批判にはビクともせず、ホークスのファンから多大なる信頼と支持される存在であった。
[編集] 著書
- 『流通革命は終わらない―私の履歴書』
- 『中内功語録』
- 『仕事ほど面白いことはない 中内功200時間語り下ろし』
- 『我が安売り哲学』
他多数。
[編集] 関連書籍
大友達也 『わがボス 中内功との一万日』 中経出版