松平定通
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松平 定通(まつだいら さだみち、1805年1月9日(文化元年12月9日) - 1835年6月24日(天保6年5月29日))は江戸時代の大名。伊予松山藩11代藩主。官位は従五位下、隠岐守、従四位下、侍従。実父は松平隠岐守定国。実母は側室祐光院殿林氏の女。正室は徳川斉匡の娘。子に令君(松平勝成室)。
[編集] 経歴
文化元年(1804年)12月9日生まれ。幼名は保丸、勝丸。文化6年(1809年)、養父定則の卒去により遺領松山藩15万石を継承。叔父で前老中松平越中守定信より定通の名を進められる。先君定則の遺志を受け継ぎ、江戸松山藩邸には藩校三省堂を設立。その甲斐あり、松山では生徒数増加のため興徳館が手狭となり、松山城内東門付近に移築し、修来館と改称。同11年(1814年)には修来館を拡充させ、明教館を創設。文武両道の振興、弛緩した気風の刷新、綱紀の粛正をはかる。定通は文化面のみならず殖産興業や倹約厳行などをすすめ、松山藩中興の祖として仰がれ、後世「爽粛院時代」と称される。それは叔父であり前老中兼将軍補佐であった松平越中守定信による影響が大きい。同年、従五位下隠岐守に叙任。翌年には従四位下に昇る。
文化13年(1816年)、11代将軍徳川家斉の名代として日光東照宮の参拝を果たす。文政8年(1825年)、溜之間詰に任ぜられ、侍従に昇る。定通は生来病弱であったため、子女に恵まれず酒井左衛門尉忠器の女鶴姫(のちの和光院殿)を養女とし、天保3年(1832年)、島津薩摩守斉宣の男勝之進(2代定頼雲孫、後の松平勝喜)を聟養子とする。
同6年(1835年)6月13日、脚気のため帰国を遅らせたが、まもなく江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。実は5月29日に卒したという。享年39(実は32歳)。法号は爽粛院殿従四位下侍従松平隠岐守源朝臣高誉博容克倹大居士。遺骸が三田済海寺に葬られる。遺髪は三田済海寺を発し木曽路を経て松山大林寺へ送られ、葬られた(天保6年6月20日に死去したという説が有力である)。
[編集] 関連項目
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