松平勝成
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松平 勝成(まつだいら かつしげ、1832年7月21日(天保3年6月24日) - 1912年(明治45年)2月8日)は、江戸時代の大名。伊予松山藩13代・15代(再勤)藩主。官位は正三位・刑部大輔・式部大輔・侍従・隠岐守・左近衛権少将。
天保3年(1832年)6月24日生まれ。讃岐国高松藩主松平讃岐守頼恕の六男として誕生。実母は側室正林院殿浅田氏の女。勝成は15代将軍徳川慶喜のいとこにあたる。幼名は増之助。
[編集] 経歴
弘化4年(1847年)、養父勝善の養嗣となる。同年、従四位下に叙され、溜間詰格に任ぜられる。続いて刑部大輔に任ぜられ、のちに式部大輔に転任、侍従に昇る。嘉永4年(1851年)、溜之間詰に任ぜられる。安政3年(1856年)、養父勝善の卒去により遺領松山藩15万石を継承し隠岐守に転任する。勝成もまた子宝に恵まれず、同6年(1859年)、先代勝善の女(貞恭院殿)を養女とし、藤堂和泉守高猷の男練五郎(のちの松平定昭)を聟養嗣とする。
万延元年(1860年)、神奈川警衛の功により左近衛権少将に昇進する。文久3年(1863年)、参内し孝明天皇の拝謁を賜う。この後、計3回の拝謁を賜う。幕末の混乱時では京都の警備と14代将軍徳川家茂の供奉に従う。元治元年(1864年)、第1次長州征伐では一番手の出兵を命ぜられ、一応ながら勝利をおさめた。この年、従四位上に昇り、歴代藩主で最高位に達する。第2次長州征伐においても同じく一番手の出兵を命ぜられたが、幕府側の足並みがそろわず、実際に戦闘を繰り広げたのは松山藩のみで、敗戦を喫す。慶応3年(1867年)、勝成はかねてより隠居を願い出ていたが、それが許され家督を養嗣定昭に譲る。その後、鳥羽・伏見の戦いでは大坂梅田に兵300を配置していたところから、朝廷より藩主定昭が蟄居を命ぜられ、勝成が再勤を命ぜられる。松山藩は土佐藩山内家に占領にされるも恭順の意を示し、松平家の家名と松山藩を守る。同年、太政官布告により源姓松平氏と葵紋を返上し、菅原姓久松氏に復姓。版籍奉還により明治2年(1869年)藩知事に就任。同4年(1871年)、再び家督を養嗣定昭に譲る。その後、正四位、従三位、正三位と栄進する。同45年(1912年)2月8日、東京にて薨去。享年81。法号は寛裕院殿。東京三田済海寺に葬られる。
正室は松山藩11代藩主松平隠岐守定通の女令姫(先代勝善の養女・清亮院殿、嘉永7年(1854年)卒去)。継室は姫路藩主酒井忠学の娘。
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