松本幸四郎 (4代目)
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4代目 松本 幸四郎(よんだいめ まつもと こうしろう、元文2年(1737年) - 享和2年6月27日(1802年7月26日))は、江戸の歌舞伎役者。俳名「錦江」、屋号「高麗屋」
京都の生まれ。江戸の初代瀬川菊之丞門人で瀬川金吾。1744年(延享元年)春中村座で初舞台。若衆役として活躍するが、1754年(宝暦4年)11月江戸市村座『けいせい浅間鐘』で瀬川錦次の名で立役。その後一時舞台を離れるが、1756年(宝暦6年)4代目市川團十郎の門に入り復帰。市川武十郎となる。師が主催した若手俳優養成塾の『修業講』で懸命に学んだことが評価され、1762年(宝暦12年)初代市川染五郎と改名。翌年2代目市川高麗蔵を襲名。その間着実に力をつけ、1772年(安永元年)11月中村座の『大鐙海老胴篠塚』で4代目松本幸四郎を襲名する。
時代物、世話物に通じ、多くの役をこなした。特に天川屋義兵衛、幡随院長兵衛などの男伊達や絹川谷蔵などの力士役を得意とした。門閥外から幹部に出世するだけあってかなりの研究熱心でもあった。それだけに性格も強く、5代目市川團十郎ら出演者としばしば衝突した。とくに初代尾上菊五郎とのトラブルは有名で、菊五郎が憤慨のあまり舞台で幸四郎に小道具を投げつけ観客に怒りの口上を述べ、怒った幸四郎が菊五郎につかみかかるほどの大騒ぎとなった。この事件を持って菊五郎は京に帰ってしまい、後年幸四郎が上方に客演した際は、上方劇壇から嫌味を受けたと言われる。
晩年は性格も円満になり、1801年(享和元年)、愛息3代目市川高麗蔵に5代目の名跡を譲り、男女川京十郎(おめがわきょうじゅうろう)と改名、ほどなく没した。
墓所は東京押上の大雲寺。息子は5代目松本幸四郎。4代目によって確立されたリアルな芸風は続く5代目によって大成されたと言われている。
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