松浦清
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松浦 清(まつら きよし、1760年3月7日(宝暦10年1月20日) - 1841年8月15日(天保12年6月29日))は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主。父は第8代藩主・松浦誠信の三男・松浦政信(清は長男)。母は政信の側室・友子(母袋氏)。正室は松平信礼の娘。子に熙、皓、娘(牧野真為室→永井直与室)、娘(松平斉厚室)、娘(樋口寿康室→黒田直候室)、娘(園基茂室)、娘(姉小路公遂室)、娘(宮原義直室)、娘(今川義順室)、愛子(中山忠能室)など。
官位は従五位下、壱岐守。死後に贈従三位。幼名は英三郎。号は静山。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。
[編集] 経歴
清の父・政信は本来ならば誠信の後を継ぐはずであったが、明和8年(1771年)に早世してしまった。このため、清は祖父・誠信の養嗣子となり、安永4年(1775年)の祖父の隠居により家督を継いで藩主となった。誠信までの松浦氏の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた祖先・嵯峨源氏にあやかって再び一字に戻したのだという。ちなみに清以降、現在の松浦氏の当主まで、その名は一字で通されている。
さて、清が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要性を迫られていた。このため清は、『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めた。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに務めている。また、藩校・維新館を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。しかし、藩校を維新館と定めたことから、幕府より「維新とはどういうことだ」と言いがかりをつけられたという。しかし、清の正室の兄は幕府の老中経験者であったから、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。どうもこの維新館は、『詩経』から取った言葉であると言われている。
文化3年(1806年)、三男の松浦熈に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に従事する。清は文学者としても秀でており、文政4年(1821年)11月の甲子の夜に執筆したということで有名な江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』や剣術書『剣談』など、多くの重要な著作を残している。特に甲子夜話は正編100巻、続編100巻に及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。また、松平定信とも交友関係があったらしい。
天保12年(1841年)、82歳で死去した。清の名前より、松浦静山としてのほうが通っているとも言われている。
ちなみに、清は17男16女に恵まれている。そのうちの11女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。
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