松田竹千代
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松田 竹千代(まつだ たけちよ、1888年2月2日 - 1980年12月1日)は、大阪府泉南郡出身の政治家である。衆議院議員選挙に通算12回当選した。ニックネームはテキサス無宿。
[編集] 来歴・人物
戦前の立憲民政党時代は町田忠治直系の政治家として知られ、一方で同じ民政党所属の三木武吉の知遇を得た。元来リベラルな政治家だったが戦時中は軍部と妥協し、1943年6月17日の翼賛政治会の代議士会で鳩山一郎と中野正剛の演説に対し「それではまるで反戦演説じゃないか。やるなら鳩山先生の如くやれ」と鳩山は支持しながら中野には反感をむき出しにして叫んだ。
そのため戦後は公職追放。追放解除後は三木と共に自由党に復帰、鳩山派の一員として活躍。自由民主党結成後は河野一郎派→森清派→園田直グループに所属したが、その後中曽根康弘派に入った。
ハト派で野党との話し合いを重視する姿勢をとり、温厚そのものの外見だったが、思想や見た目とは裏腹に無類のきかん気で、妥協を拒む性格でもあった。また文部大臣時代は日教組の集会に顔を出すなど、自民党の立場にとらわれない姿勢をとった。1980年12月1日死去。享年92。
[編集] 略歴
- 1902年:米国西部の荒野を夢見て14歳で単身渡米。
- 1914年:帰国。
- 1928年:民政党公認で総選挙に出馬し初当選。
- 1939年:クリスチャンの賀川豊彦やのちに内閣総理大臣となる三木武夫らと日米同志会を結成。
- 1940年:斎藤隆夫の反軍演説に際しては当初斎藤擁護だったが妥協、民政党解党後は大政翼賛会に参加。
- 1943年6月17日:翼賛政治会の代議士会で中野正剛を非難、三木武吉に「茶坊主黙れ!」と一喝される。
- 1945年:日本進歩党の結成に参加。
- 1946年:公職追放。
- 1952年:追放解除に伴い政界復帰。総選挙に自由党から出馬し当選。
- 1953年:鳩山一郎らの分党派自由党に参加、総選挙後も自由党に復党せず日本自由党を結成。
- 1954年:日本民主党の結成に参加。
- 1955年:第2次鳩山内閣に郵政大臣として初入閣。
- 1959年:第2次岸内閣改造内閣に文相として入閣。
- 1969年7月:衆議院議長に就任。
- 1972年:総選挙に落選して政界引退。
[編集] 外部リンク
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