柳生氏
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柳生氏(やぎゅうし)は日本の氏族の一。
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[編集] 経歴
[編集] 柳生氏、大名への歴史
柳生氏の姓は菅原という。一説には菅原道真が祖先とも言われているが、これは正確にはわからない。柳生氏で世俗が明らかになるのは柳生宗珍の頃からで、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗巌(石舟斎)は、宗珍から8代目に当たる人物である。
宗巌は戦国時代、松永久秀に仕えたが、その久秀が織田信長と争って滅亡し、さらに豊臣秀吉の太閤検地によって隠田の罪で2000石の所領を没収されるなど、次第に落ちぶれていった。しかし、黒田長政の仲介により当時秀吉に次ぐ実力者であった・徳川家康と出会った宗巌は、家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えたいと申し出を受ける。宗巌は当時、すでに66歳という老齢だったため、これを辞退し代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として推挙したのである。これは文禄3年(1594年)5月3日のことである。そのことが、『玉栄拾遺』にも詳細に記されている。
「文禄甲午の年、聚楽紫竹村にて宗巌公の剣術始て神君(徳川家康)上覧。木刀を持玉ひ。宗巌是を執るべしと上意あり。即ち公無刀にて執り給ふ。其時神君後ろへ倒れ玉はんとし、上手なり向後師たるべしとの上意の上、景則の刀を賜ひて誓詞を辱くす。時に5月3日也。且俸禄200石を賜ふ」
なにはともあれ、信長・秀吉時代に落ちぶれた柳生氏は、家康時代に再び世に出ることとなったのである。
[編集] 宗矩の出世
宗矩は宗巌の五男である。徳川氏に仕えることとなったのは、長男の柳生巌勝は久秀配下として筒井順慶と戦ったとき、鉄砲により戦傷を負い、次男の柳生久斎と三男の柳生徳斎は僧侶となり、四男の柳生五郎右衛門は中村一氏に仕官していたからである。
家康に仕えた宗矩は、大いに活躍した。1600年の関ヶ原の戦いでは家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。翌年、その功績により旧領2000石に加えて新たに1000石を加増され、徳川秀忠の兵法指南役となる。宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。1614年の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬り殺した。
1621年からは徳川家光の兵法指南役となり、1629年には従五位下但馬守を叙任する。1632年には井上政重らと共に総目付(後の大目付)に任じられ、3000石を加増された。1636年には4000石を加増され、合計1万石の大名となる。1639年にも2000石、翌年にも500石を加増され、合計して1万2500石を領する大名となった。 宗矩と同時期に徳川氏に仕えていた小野派一刀流の開祖・小野忠明(御子神典膳)の所領はわずか600石ほどに過ぎなかった。一方の宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進したのだから、相当の信任を受けていたことがうかがえるであろう。
[編集] 系譜
凡例 太線は実子。細線、二重線は養子(俳優の柳生博は末裔)。 永珍 ┃ 家重 ┃ 道永 ┣━━━┓ 家宗 秀政 ┃ ┃ 光家 秀国 ┃ ┃ 重永 秀友 ┃ 家厳 ┃ 宗厳 ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ 厳勝 久斎 徳斎 宗章 宗矩 ┣━━━┓ ┏━━━┳━━━╋━━━┓ 久三郎 利厳 三厳 友矩 宗冬 列堂義仙 ┏━━━╋━━━┓ ┏━━━┫ 清厳 利方 厳包 宗春 宗在 ┃ ┃ 厳延 俊方 ┃ ∥ 厳儔 俊平 ┏━━━┫ ∥ 厳春 房吉 俊峯 ┣━━━┳━━━┓ ∥ 厳教 厳之 厳政 俊則 ┃ ┃ ∥ 厳久 厳広 俊豊 ┃ ┃ ┃ 厳蕃 厳直 俊章 ┃ ┃ ∥ 厳周 鎮雄 俊能 ┏━━━┫ ┃ ∥ 厳長 包治 延夫 俊順 ┃ ∥ 厳道 俊益