桂文治 (9代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
9代目桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。通称「留さん文治」。稲荷町(現・台東区東上野)の長屋に住み、小さん門下の8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分で部屋も隣り同士と昵懇の間柄であった。
大正4年(1915年)4代目橘家圓蔵に入門、橘家咲蔵。大正8年(1918年)8代目翁家さん馬(後の8代目桂文治)門で翁家さん好、立花家橘之助とともに巡業するが御難にあい東京に帰れなくなり、大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。
大阪時代は、その後の持ちネタとなる多くの噺を学び、また初代桂春團治に接し大きな影響をうけるなど彼自身にとって一つの転機となった。大正10年(1921年)帰京、文治門下に復帰し桂文七となる。だが、師匠文治との関係が悪化し止む無く3代目柳家小さん一門に移り、大正14年(1925年)柳家さん輔で真打となる。昭和13(1938年)年9代目翁家さん馬を襲名。戦後は文化放送専属でラジオの寄席中継に出る様になり、その芸が認められる様になり、昭和35年(1960年)9代目桂文治の大名跡を襲名する。
昭和47年(1972年)落語協会顧問に就任し、落語界の最長老として活躍するも昭和51年(1976年)病に倒れる。1978年3月8日に死去した。享年85。
弟子に7代目桂才賀(文治没後は3代目古今亭志ん朝一門に移籍)がいる。定紋は結三柏。出囃子は「野崎」
周囲の薦めにより前名翁家さん馬から9代目桂文治を襲名する際、本人は襲名に多額の資金が必要な事(吝嗇家として有名だった)と、「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなるという事で嫌がったという。
「留さん文治」は、一見8代目文治を引き継いだ非常に怖そうな老大家のようだが、その芸風はひょうひょうとした軽い語り口の中に不思議な英語、微妙にアナクロな現代語を織り込んだものであった。そのため代々の文治の流れからすると異色である感は否めないものの、寄席には絶対に欠かせない芸人であった。以下は「留さん文治」の名文句集である。
- 「心中するのにサーベルもって行くやつがあるかい。バグダッドの盗賊じゃねぇんだぞ」(「小言幸兵衛」)
- 「エデンの東のほうから来たんじゃねぇのかい」(「小言幸兵衛」)
- 「若い頃だけですよ、女性が男性に憧憬されたり、ベストを尽くされるのは。ましてや頭の毛がホワイトとなってごらんなさい。そして筋肉に緩みが生じてくるね。アクセントロジックのZ(ゼット)が迷宮に入ってごらんなさい、だぁれも構う者はないから」(「大蔵次官」)
- 「顔面にホワイトのペンキを塗り」(「大蔵次官」→10代目文治も使っていたクスグリ)
- 「(ケネディ大統領が暗殺された話で)殺された場所がよくねぇ、テキサス州ってんでしょう。敵を刺すってんですからね。ダラスって町でしょ。だらすがない。殺したやつがオズワルドってので、自分の了見じゃねぇ、人におすわるとそういうことをする」
- 「『悶え』っていう映画を観てると体が悶えてくる。あの映画に出てる岸田今日子って女優がね。すけべったらしい目つきでね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんすよ」(「現代の穴」)
得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸(10代目文治の実父)作の「大蔵次官」、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優の命日」、「岸さん」「不動坊」「歌劇の穴」「宇治大納言」などである。