ジョン・F・ケネディ
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アメリカ合衆国35代大統領
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任期: | 1961年1月20日 – 1963年11月22日 |
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副大統領: | リンドン・ジョンソン |
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出生日: | 1917年5月29日 |
生地: | マサチューセッツ州ブルックライン |
死亡日: | 1963年11月22日 |
没地: | テキサス州ダラス |
政党: | 民主党 |
配偶: | ジャクリーン・リー・ブーヴィエ |
サイン: | ![]() |
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy , JFK , 1917年5月29日 - 1963年11月22日)は第35代アメリカ合衆国大統領である。選挙で選ばれた大統領のうちで、最も若い(当時43歳)大統領である。一般的には清新なイメージのリベラル派とされ、ベトナム戦争からの早期撤退を計画。キューバ危機を回避。またいくつかの歴史に残る名演説を残した。1963年にダラスにて暗殺される。暗殺の背景は未解明であり、現代においてもさまざまな陰謀説が流れている。若く、有望視されたこの大統領の暗殺は衝撃的かつ悲劇的であり、アメリカ社会に現在でも暗い影を投げかけている。暗殺時の映像(通称:ザプルーダー・フィルム)が現存する。
目次 |
[編集] 生い立ち
ケネディはマサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民の子孫で、株取引(大恐慌の際、株の空売りで巨利)や禁酒法時代に密造酒の製造で大儲けをした投資家のジョセフ・P・ケネディ・シニアの2番目の息子として生まれた。ケネディ家は非常に富裕な家柄で華やかなイメージが強いが、他方で常に陰のイメージが付き纏うのは、彼の父の経歴に根ざしている。
13歳のときにチョート・スクール(コネチカット州ウォリングフォードの寄宿学校)に入学し、その後1935年にイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに1年間留学した。帰国後ハーバード大学に入学を認められていたものの、親しい友人が進学を決めたプリンストン大学に入学することにしたが、クリスマス休暇中の黄疸のために退学しなければならなかった。1936年の秋にはハーバード大学に転校したが、在学中にフットボールの試合で背中をひどく痛めた。彼は、ハーバード在学中ヨーロッパへ2度旅行した。2度目の旅行は父親が駐イギリス大使を務めていたイギリスへのものであった。帰国したケネディは1938年のミュンヘン協定でのイギリスの外交政策の分析についての卒論「イギリスはなぜ眠ったか」を書き、第二次世界大戦中の1940年6月にハーバードを優等で卒業した。
1941年の春にケネディは陸軍を志願したが、学生時代に受けた背中の傷のために拒絶された。しかしながら、夏に体を鍛え、その年の9月に海軍士官に任官、1943年3月には艇長としてパトロール魚雷艇を受け取り、太平洋戦争中に様々な作戦に参加した。
ケネディ中尉が率いる魚雷艇、PT-109は、1943年8月2日にソロモン諸島の近くのニュージョージアの西を哨戒していた時に、大日本帝国海軍の駆逐艦「天霧」との偶発的な接触事故によって船体を引き裂かれた。彼は痛めていた背中からデッキにたたきつけられたが、負傷者を命綱で結びつけ3マイル遠泳して、なんとか小さな島にたどり着いた。友軍による数日の探索後に島民2人に出会い、ココナッツに刻んだメッセージが元で救助された(このココナッツは後年、ホワイトハウスの執務室に暗殺の日まで置かれていたという)。これらの行動について、ハルゼー海軍提督からの感謝状、名誉負傷章、海軍メダルおよび海兵隊メダルを受章した。しかしながら背中の傷はボートの上にぶつけた際に悪化し、さらにマラリアにかかり、1945年前半、終戦の数か月前に名誉除隊をした。
後日談だが、1952年の上院選、1960年の大統領選の際には、大日本帝国海軍の駆逐艦「天霧」の元乗員一同から激励の色紙を贈られている。
[編集] 政治経歴
第二次世界大戦後、彼は戦死した兄ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアに代わり政界に入った。1946年にジェームズ・M・カーレイがボストン市長になるために民主党下院議員を辞職した時、ケネディはその議席をかけた選挙に立候補した。父のジョセフが銀行家で政治資金には困らなかったので、実現不可能な公約をする必要はなく理想主義を語ることができた。長く精力的なキャンペーンの末に、大差で共和党候補に勝ち、29歳で下院議員となった。下院3期目の1952年には上院議員選挙に出馬し、約70,000票の票差で共和党候補ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破った。彼の支持基盤は北部都市圏のリベラル派インテリ層であった。
ケネディは1953年9月12日にフランス系移民の名門の娘であるジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した。彼はその後2年間に多数回の脊柱の手術を受け上院本会議を長期にわたって欠席したが、手術から回復するまでの間、8名の上院議員の政治的に勇敢であった行為についての本「勇気ある人々」を出版した。この本はその後ピューリツァー賞を受賞したが、代作の噂が生じ、1955年に上院に戻った時には多くの批評家が彼を「虚偽の自由主義者」と呼んだ。
ケネディは組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する上院マクレラン委員会の委員として名を連ねていた。実弟の司法長官ロバート・F・ケネディはこの委員会の首席顧問として司法省から回され検事役を務めた。この委員会による最大の功績は、アメリカ一の組合員数を誇ったトラック運転手組合チームスター・ユニオンとマフィアとのつながりを明らかにしたことである。これによりチームスター・ユニオンのボス、ジミー・ホッファとマフィアの深い関係が暴かれ、以後ケネディ兄弟対ホッファの因縁の対立が始まる。
また、マクレラン委員会はバティスタ政権下(1959年にカストロが政権を握る前の独裁者政権)のキューバからのヘロインの中継基地が、南部の港湾都市で、港湾労働者組合をマフィアが抑えていたニューオーリンズであると特定した。この委員会の活動によりケネディ兄弟は知名度を高めた。
[編集] 1960年の大統領選
ケネディは大統領予備選挙に7度出馬し全て勝ち抜いたが、民主党幹部はカトリック教徒である彼が大統領候補になれば民主党は勝てないと判断した。彼らの声を代表して元大統領のハリー・S・トルーマンはミズーリ州インディペンデンス市で記者会見を行い、テレビを通じてケネディに出馬を思いとどまるよう訴えた。ケネディはこれを逆手にとってニューヨークで記者会見を開き、全ての予備選に出馬したのは自分だけであること、14年間の自分の政治経歴が大統領職に十分でないのであれば、トルーマン自身を含めて歴代の米国大統領の大部分が経験不足ということになること、44歳以下の人間が国家に対して責任ある地位に就けないのであれば、建国の父たちは存在し得なかったことを挙げて説得力ある反論をし、国民の支持を増した。
1960年7月13日、民主党大会においてケネディは大統領候補に指名され、副大統領候補にはテキサスの上院議員リンドン・B・ジョンソンを指名した。彼はその指名受諾演説で有名なニュー・フロンティア精神を掲げた。この演説の中でケネディはアメリカ国民に対し、現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となるよう呼びかけた。
選挙期間中、ケネディもニクソンもキューバに関する公約として、「必要とあらばキューバ侵攻を認める」という姿勢を通していた。
大統領選キャンペーンが最後の追い込みに入った10月半ば、公民権運動家のマーティン・ルーサー・キングJr.牧師が、座り込みデモのために南部のジョージア州アトランタで逮捕された。南部の刑務所ではキングが殺される可能性は十分にあった。この事件に対しコメントを求められると、ニクソンはノー・コメントの姿勢を貫き通したが、ケネディは即座にキング夫人に事態を憂慮しているとの電話をかけ、キング釈放のために動き出した。翌日、実弟のロバート・ケネディがキングに有罪判決を言い渡した判事に電話を入れ、キング釈放を求め、この翌日キングは釈放された。この一件で多くの黒人有権者がニクソンからケネディに流れたといわれている。黒人の多くはプロテスタントの一派であるバプティスト派の信者であるため、初めはクエーカー教徒で同じプロテスタントであるニクソン支持に回っていた。キングの父親はニクソン支持からケネディ支持に鞍替えした理由を尋ねられた時、「私の妻が息子の逮捕に涙を流している時、彼(ケネディ)は、その涙を拭ってくれた。このような時にこうした行動をとる事は勇気のいる事だからだ」と答えたという。また、前大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「たった2回の電話(ジョン・ケネディからキング夫人への電話とロバート・ケネディから判事への電話)が民主党を勝たせる結果になってしまった」と語った。
[編集] テレビ・ディベート
この選挙では初めてテレビ・ディベートが取り入れられ、選挙に大きな影響を与えた。ケネディはマクレラン委員会の活動により名を高めていたとはいえ、現職副大統領のニクソンの知名度にははるかに及ばなかった。この事実を反映するように、テレビ・ディベートの直前に行われた支持率調査ではニクソンの支持率が勝っていた。しかし、ケネディはテレビ演説で好印象を残し、これが幸いしてニクソンに勝利できたとされる。
ケネディの好印象の理由の一つは、彼が着ていたスーツの色と言われる。演説の時、ケネディは濃い色のものを、それに対してニクソンは薄い色のものを着ていた。当時のアメリカの一般家庭にあったテレビはモノクロであったから、ケネディは濃いグレーで表示され力強く見え、反対にニクソンは薄いグレーで表示され、たよりなく見えたと言う。さらにケネディはテレビ用のメーキャップをした上に、持病の治療のために服用した薬品の副作用で日焼けしたスポーツマンに見えた。それに比べニクソンは直前に怪我を追っていたために顔色が悪かったにもかかわらずテレビ用のメーキャップを拒否した上に、選挙戦の疲れからやつれて見えた。また、ケネディが大所高所から国民に語ったのに対して、ニクソンはケネディを言い負かすことに集中するあまり細かい政策を語ることに集中し、国民に対する語りかけに欠けていた。
このテレビ・ディベート以来米大統領選では両党の候補者がテレビ・ディベートを行うことが定着化している。また、候補者が着るスーツの色も、ほとんどがケネディが着ていたのと同じ、濃い紺色に近いものとなっている。
[編集] ケネディの選挙不正
11月8日の総選挙は歴史に残る接戦で共和党候補リチャード・ニクソンに勝ったが、この選挙の際にケネディ陣営が、マフィアや労働組合、非合法組織を巻き込んだ大規模な不正を行ったことが後の調査で判っている。実際、不正の証拠をいくつもつかんだニクソン陣営は、選挙管理委員会に対し正式に告発を行おうとしたが、前大統領のアイゼンハワーに「裁判となり泥仕合になると国家の名誉を汚す結果になる」と説得され、告発を取りやめている。この際のニクソンの英雄的な行為は、ニクソンに批判的な人々からも賞賛されている。
また、父親のジョセフ・P・ケネディ・シニアが、禁酒法時代に密売酒の製造を行っていた時の仕事上のパートナーで関係の深いマフィアに、彼らの縄張りであるシカゴの労働組合票の取りまとめを依頼していたことが後に暴露されている。このとき、国外追放を受けていた大物ボスのジョー・アドニスを、再入国させると約束しながらさせなかったことで、マフィアから恨みを買うことになる。
43歳で当選したケネディは最も若い大統領および最初のカトリック教徒だった(セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、ウィリアム・マッキンリーが暗殺された後を埋めるため自動的になったもので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少である)。その選挙運動に関するセオドア・H・ホワイトの1961年の著書「 The Making of the President 1960 」は、ベスト・セラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用される。
- Theodore Harold White , " The Making of the President 1960 " (ピューリッツァー賞受賞)
- T.H.ホワイト・著、渡辺恒雄・小野瀬嘉慈・訳 『大統領になる方法』(上巻・下巻の全2巻) 弘文堂 1964年
- シオダー・H.・ホワイト・著、渡辺恒雄・小野瀬嘉慈・訳 『大統領への道』(フロンティア・ライブラリー) 弘文堂 1965年 (『大統領になる方法』の改題新装版)
[編集] 大統領職
ジョン・F.ケネディは1961年1月20日に第35代大統領に宣誓就任した。彼は就任演説において、アメリカ人がみなアクティブ・シチズンである必要を語った。「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.(祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい)」さらに、「人類の共通の敵」暴政・貧困・疾病および戦争と戦うためにともに参加してくれるように世界の国家に依頼した。この演説は、「近年で最も偉大な大統領就任演説」として、多くのアメリカ国民の記憶に留められた。
しかし、彼は華麗なスタイルと魅力で人々を魅了こそしたものの、具体的な成果はとぼしかった。ニューフロンティア政策の大半は議会の抵抗で頓挫。公民権法も成立したのは、議会政治を熟知したジョンソン政権下でのことだった。経営学の父ドラッカーはケネディのことをカリスマ性に富んだ政治家であることを指摘しつつも、「これほど何もできなかった大統領はいない」と指摘している。
ケネディの主な政策は、国内政策は鉄鋼業界によるカルテルとの対決、人種差別問題への介入、そしてケネディ家と因縁の深いマフィアとの対決。国際政治はキューバ危機後の軍縮への努力である。
[編集] 外交政策
[編集] ピッグズ湾事件
ケネディは就任後すぐに、短い政権期間中において最大の失敗をする。亡命キューバ人を訓練してカストロ政権を転覆させることを目的としたピッグズ湾事件である。ピッグズ湾侵攻計画はキューバ革命後、ケネディの前任者アイゼンハワー政権末期にCIAにより準備された。大統領のアイゼンハワーはこの作戦にはほとんど関わらず、副大統領のリチャード・ニクソンが主導していた。ケネディが大統領に当選すると作戦を主導してきたCIA長官のアレン・ダレスや、作戦局次長リチャード・ビッセルらはケネディにこの侵攻計画を説明し、実行するよう促した。
1961年4月4日、この計画に関する最後の会議が国務省で開かれた。出席者は大統領ケネディ、国務長官ディーン・ラスク、国防長官ロバート・マクナマラ、財務長官C・ダグラス・ディロン、その他国防次官クラスの閣僚のほか、外交委員長J・ウィリアム・フルブライト、大統領顧問のアーサー・シュレジンジャーほか二人、CIA長官アレン・ダレス、CIA作戦局次長リチャード・ビッセル、統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァーであった。この会議でケネディは「いかなる場合もアメリカ軍の正規軍は投入してはならない」という条件付きで実行を許可し、出席者は全員ケネディの条件を承諾した。
しかし、CIAは実際に上陸する亡命キューバ人部隊に対してはアメリカ正規軍の援助を約束していたため、作戦は完全な失敗に終わり、さらにこの事件へのアメリカ政府の介入が世界中に知られたため、ケネディ政権は中南米諸国をはじめとする各国からの非難を浴びた。さらにアメリカ軍の投入を拒否したために、亡命キューバ人団体やCIA、軍部からも反感を買った。ケネディはこの事件を期にアレン・ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官を更迭し、ジョン・マコーンをダレスの後任とした。
その後、CIAが行なっていたカストロ暗殺計画を知っていたかは意見が分かれている。
[編集] ベルリン危機
ピッグズ湾事件から2ヶ月も経たないうちに、次なる試練であるベルリン危機が勃発した。1961年6月のウィーン会談で、ケネディはソ連のフルシチョフ書記長兼首相を相手に首脳会談に臨んだ。議題はベルリンに関してだった。この会談でフルシチョフは、西ドイツと西ベルリンを管理しているアメリカとイギリス、フランスの4国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで第二次大戦の戦後処理を終結すべきと主張した。もしそれがなされれば米英仏の軍隊は西ベルリンから撤退せねばならないと説いた。そんなフルシチョフに対してケネディは、西側の権利は放棄しないと反論、これに対しフルシチョフは、西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶと伝えケネディをゆさぶった。しかしケネディは、西ベルリンの自由を妥協の対象にはしないと通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。
翌月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。ケネディの強硬姿勢に対して1961年8月13日にフルシチョフは、ベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。これに対してケネディは西ベルリン駐留軍を強化。結局ソ連と東ドイツの間に平和条約が結ばれることはなかったが、この後もベルリンを巡って米ソの緊張は続いた。後にケネディが西ベルリンを訪問したときケネディが演説中に言った「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」という言葉は、アメリカの西ベルリンに対するコミットメントの強さを表すものとして、多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることになる。
[編集] キューバ危機
キューバ危機の回避は、おそらくケネディの大統領在職中最も重要な出来事だった。確固たる信念と優れた政治手腕によって、ケネディは戦争を望んだ政権中の強硬派のコントロールと、野心的なソ連の脅迫によって脅威が増すことを防ぐことの両方を試み、それに成功した。後に、多くの人がキューバ危機を「世界が核戦争に最も接近した時」であると考えている。
キューバ危機は、アメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソビエト連邦がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影した1962年10月14日に始まった。ケネディは国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)を設置して対応に当たった。エクスコムの会議において、統合参謀本部のメンバーはキューバ奇襲攻撃を主張したが、マクナマラ国防長官やロバート・ケネディ司法長官は海上封鎖を主張した。ケネディは海上封鎖の実施を決断し、同盟国の支持を得るために元国務長官ディーン・アチソンをフランスのシャルル・ド・ゴールのもとに派遣するとともにイギリスのハロルド・マクミラン、西ドイツのコンラート・アデナウアーのもとに国務次官を送り、NATO主要国である彼らの支持を得た。また、OAS諸国にはアメリカ大使館を通して事態を知らせた。
さらに元大統領のハーバート・フーヴァー、ハリー・S・トルーマン、ドワイト・D・アイゼンハワーをホワイトハウスに招きケネディ自身が状況説明を行い、さらに議会指導者に対しても自身で状況説明を行った。この議会指導者との会談ではJ・ウィリアム・フルブライト上院議員やリチャード・B・ラッセル上院議員は海上封鎖に反対し、キューバ爆撃を主張した。さらに国内の軍隊をアメリカ南東部に移動、戦略空軍を最高の警戒レベルに引き上げ、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた。
10月22日午後7時、これらの準備が整った上でケネディは演説を行い、キューバに攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、キューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調した。この演説は合衆国海外情報局(USIA)を通してスペイン語に訳され中南米諸国に放送された。この演説の翌日、OASは全会一致で米国による海上封鎖措置の支持を決議した。ケネディの演説から2日後の朝に海上封鎖が発効し、潜水艦に守られていたソ連船18隻のうち16隻が洋上で停船・またはUターンし、翌日にはこれら16隻全てがUターンした。10月23日にはケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開し、10月25日にはアメリカ国連大使アドレイ・スティーヴンソンがこれらの写真を用いてソ連国連大使ヴァレリアン・ゾーリンと対決し、劇的な効果を収めた。
しかしこの後もキューバ国内ではすでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。さらに10月27日にはルドルフ・アンサーソン少佐が操縦していたU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)により撃墜される事件が起こった。これにたいしてエクスコムのほぼ全員がSAM基地の破壊で一致したが、ケネディは彼らを引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないことを訴え攻撃しないことを決定した。
この間10月26日と10月27日にフルシチョフから書簡が届いており、前者は柔軟、後者は強硬な内容であった。ロバート・ケネディ司法長官とテッド・ソレンセン大統領顧問は前者に対する回答を起草し、これが送信された後、ロバート・ケネディは駐米ソ連大使アナトリー・ドブルイニンを司法省に呼び会見した。ニキータ・フルシチョフはこの回答に対する返事の中で、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイル基地を解体することに同意した。キューバ危機の後、ケネディはトルコに配置してあるジュピター・ミサイルを撤去した。後の歴史学者の間では、当時の副書記官ミコヤンからの強い進言がフルシチョフにキューバの核ミサイル撤去に踏み切らせたと考えられている。
ケネディとフルシチョフは、核戦争の危機をうまく回避したことにより世界中からの尊敬を集めたが、後にフルシチョフはこの際の対応などを理由に1964年10月に失脚させられてしまった。
[編集] 平和のための戦略
ケネディはキューバ危機が去った1963年6月10日に、アメリカン大学の卒業式において「平和のための戦略(THE STRATEGY OF PEACE)」という演説を行なった。
その和訳 「私の言う平和とは何か?我々が求める平和とは何か?それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制される『パックス・アメリカーナ』ではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」
さらに米英ソの間で核実験禁止条約に関する話し合いを始めることを明言し、他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはないと宣言した。この演説はノーカットでソ連の新聞やラジオで伝えられた。その後、1963年7月25日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結することになる。しかし、この条約は大気圏内、海中、宇宙空間での核実験は禁止したが、地下での実験は禁止されなかった。この条約はその内容よりも、軍縮への第一歩としてのシンボルであるという点に意味があった。
ケネディ暗殺後、世界は激しい冷戦時代に突入する。ケネディ暗殺のあと、世界は30年も待たされ、強力なリーダーシップをもち軍縮に積極的なソ連のミハイル・ゴルバチョフの登場を迎えて冷戦は終結する。言い換えれば、ケネディの軍縮に積極的な革新的態度は、30年進んでいたともいえるだろう。ケネディの冷戦解消にきわめて積極的な革新的態度は、アメリカ国内の軍産複合体の大きな脅威だったといわれる。
彼はまた、イスラエルの核開発に対し強硬に対応した唯一の合衆国大統領としても評価されている。建国直後から、アメリカやイギリス、フランス等から明暗の力を得て核開発に邁進したイスラエルだが、ケネディは大統領就任直後から「イスラエルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という信念のもと、何度も外交勧告を行い、ついには査察団まで送り込んだが、イスラエルは最後まで欺き通し、後に核開発に成功した。
[編集] ベトナム戦争
[編集] 本格参戦の先導役
ケネディは大統領に就任直後、前職のアイゼンハワー時代から軍事物資とアメリカ軍の「軍事顧問団」を送り続けていた南ベトナムの状況に関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対して南ベトナムについての提言を求めた。また副大統領ジョンソンを南ベトナムに派遣し、情勢視察に当たらせた。特別委員会、統合参謀本部はともに、北ベトナム長年対峙し続けていたものの苦戦していた南ベトナムへの正規軍投入を提言し、ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を「東洋のウィンストン・チャーチル」ともちあげ、南ベトナムへのアメリカ軍の正規軍の派兵を主張した。
これに対してケネディは、ソ連や中華人民共和国に対して刺激を与える可能性が高く、また兵士の損失が増加する恐れが多い正規軍の派兵は避け、代わりに「軍事顧問団」の派兵を大幅に増強することを決定した。その結果、ケネディの就任時には4000人だった「軍事顧問団」の派兵数は2年後には1万5000人に達し、実質的に正規軍の派遣と変わらない規模となる。実際、「軍事顧問団」の多くが最前線で南ベトナム軍と共同作戦を行うようになるなど、事実上ケネディは、アメリカ軍をベトナム戦争の泥沼に引きずり込ます先導役を果たすこととなった。
[編集] クーデターへの関与
1963年6月に、ディエム政権の仏教徒に対する圧政を世界に訴えるため、仏教徒の僧侶であるティック・クアン・ドックがサイゴンのアメリカ大使館前でガソリンをかぶり焼身自殺を遂げる事件が起こると、ケネディはディエムに仏教徒弾圧を止め、早急な社会改革を行うよう求める親書を送った。その後の9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。
しかしジエムがケネディのこの発言に「内政干渉」であるとして反発すると、ケネディはCIAに指示し、ズオン・バン・ミン将軍率いる南ベトナム軍の親米勢力によるゴ・ディン・ジエム政権に対する軍事クーデターと大統領暗殺を行わせた(なお、1975年に上院ウォーターゲート調査委員会は、ケネディがクーデターの実行を支持したものの、ジエム暗殺も指示したという説を否定している。これについてはウォーターゲート事件の主犯エヴェレット・ハワード・ハントが「ケネディが暗殺も指示した」とする証拠書類を偽造したことを同委員会の証言で認めている)。その後11月1日には、クーデターの主導者の1人で親米派のズオン・バン・ミン将軍率いる政権を樹立させた。
[編集] 戦争の「現地化」を模索

ケネディは、クーデターが成功する前日の10月31日には、ミン大統領率いる「アメリカの傀儡政権」ともいえる親米政権の樹立後に南ベトナムと北ベトナムの戦いを再度「現地化」させるべく、年末までに「軍事顧問団」を1000人引き上げる予定であることを発表、そしてクーデター後の11月にマクナマラ国防長官が年内の1000人の「軍事顧問団」の引き上げを再確認するとともに、1965年までの「軍事顧問団」の完全撤退計画を発表した。
しかしこの撤退計画は、発表直後の11月23日にケネディが暗殺された上に、すでにこの時点で、南ベトナム軍はケネディにより送り込まれたアメリカ軍の「軍事顧問団」無しでは戦えない状況になっていたこともあり、最終的に頓挫することになった。しかも南ベトナムは、その後1967年にグエン・バン・チュー(阮文紹)政権が出来るまでクーデターが繰り返し起こるなど極度の不安定な状態におちいった。
なお、ジエム政権崩壊のクーデターの直後にケネディがダラスで暗殺されたことから、南ベトナムでは「ケネディの暗殺事件は、ケネディに裏切られたジエムの祟りではないかと噂された。
[編集] 柔軟対応戦略
ケネディはアメリカの対ソ軍事戦略を、それまでの大量報復戦略から柔軟対応戦略への転換を決定した。前任者アイゼンハワーのもとで国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスはソ連による先制攻撃を受けてもただちに大量の核兵器によって報復できるだけの核攻撃能力を保持することによって、ソ連に侵略を思いとどまらせることができる、とする大量報復戦略を提唱したが、このような核のみに依存する戦略では非核保有国による攻撃を受けた場合、アメリカは核を使わずに敗北を受け入れるか非核保有国に対して核で報復するという、いずれにしてもアメリカの名誉を傷つける道を選ばざるをえなくなるとケネディは判断した。そこでケネディ政権は非核戦争を戦うための米軍の能力を強化することで、核戦争の危険性を低めてアメリカの選択の幅を広げることに努めた。
ケネディのこの決断の背景には、ソ連の核開発が進み、また核の運搬手段にもなりうる無人人工衛星(スプートニク)や有人人工衛星(ボストーク)などの打ち上げにソ連がアメリカに先んじて成功していたため、ソ連の核戦力がアメリカに追いつきつつあると考えられていたという事情もある。核戦力の差があまり大きくなければ大量報復戦略は成り立たない。そのためケネディは相手の出方に合わせてゲリラ戦から通常戦まで幅広く対応できる戦略の構築をめざした。この戦略は後にNATOにも取り入れられ、1967年にはソ連海軍の外洋進出を抑えるために大西洋常備艦隊が配置され、また1973年には英仏海峡常備軍が編成された。
[編集] 対テロ
ケネディは、大統領になる以前から、『将来、国家間による大動員の戦争は歴史の主役とはならず、(軍事戦略としての)テロリズムが戦争に取って代わり、戦時と平時の区別は曖昧になる』、という予測を打ち立ていた。大統領就任後、その予測を元に独自の対テロ論を国防に反映させるための研究に取りかかる。具体的には、国内で起きるテロを警察案件から軍事案件に移すための法整備や、テロ予防や防御、先制攻撃・反撃のための方策を研究させる私的なグループを発足させた。だが、戦争省時代から軍事における国務を独占する職責を自任する国防総省に喝破され、研究は瓦解した。さらにはベトナム戦争の勃発と自身の暗殺、ベトナム敗戦もまた遠因となり、80年代末までアメリカの対テロ政策は逡巡を見ることになる。
ケネディは、自身による私的研究を頓挫させられた後も、自身の対テロ論を叩き台として、海軍の特殊潜行部隊内に対テロ・対ゲリラコマンド部隊を発足させた。これはケネディが海軍出身であったことも関係があったとされている。
なお、ケネディによる対テロ論とは、軍隊の戦略もしくは戦術としての対テロである。言い直せば、敵国工作員部隊による自国都市への攻撃に対する国防戦略であって、アメリカの今日的課題である、『国家を持たず軍隊でもないが、よく訓練された工作員を多数持つ巨大な狂信的組織によるアメリカへのテロ』、いわば『テロとの戦争』を正確に予測したものではなかった。
[編集] 平和部隊
ケネディが最初に行ったことのうちの1つは平和部隊を作ることだった。志願したアメリカ人によって実行されるこのプログラムは、今日まで存続している。彼らは、教育、農業、ヘルスケアおよび建設の部門で支援にあたる。多くの若者および女性が平和部隊のボランティアを務めて、世界の至る所での多くの人々の尊敬を勝ち取った。しかし同時に、アメリカの過剰な他国への介入の象徴として批判される面もあった。
[編集] 国内政策
[編集] 人種差別との戦い
ケネディは、多くの深刻な国内問題にも対処しなければならなかった。すべての問題の中でも最も大きな問題であったのは人種差別に関する問題であった。ケネディは大統領権限でできることとして、有能な黒人を積極的に連邦政府の幹部に任命した。その結果司法省では黒人の連邦検事は10人から70人に増え、また連邦判事もゼロから5人に増えた。また、企業や労働組合に対しても黒人を積極的に雇うよう働きかけた。連邦政府の補助金を受けている病院や図書館での差別は大統領府令によって禁止し、連邦雇用局に対しては白人だけを雇う企業の求人を拒否するよう命じた。さらに、ケネディは黒人の選挙権に対する二つの南部の悪習を撤廃させるよう努力した。その一つとして、貧しい白人や多くの黒人を投票所から締め出していたポール・タックス(投票するために支払う税金)を廃止する法案を通過させ、この法案は合衆国憲法修正第24条となった。もう一つの悪習はリテラシー・テスト(黒人を選挙から締め出すことを目的としたテスト)であったが、これを廃止する法案は上院を通過できなかった。
連邦最高裁は、1954年に、公立学校の中での人種の分別を違憲とする判決を下した(ブラウン判決)。しかしながら、特に南部の州には、この決定に従わなかった多くの学校があった。1962年9月、ジェームズ・メレディスという黒人学生がミシシッピー州立大学に入学しようとして拒否させる事件が起きた。メレディスは一年前から州政府と法廷で争い、地方裁判所から連邦最高裁までことごとくメレディスが勝訴してきた。しかしミシシッピ州知事ロス・バーネットは裁判所の判決を拒否したため、連邦控訴院はバーネットに法廷侮辱罪で有罪を宣告し、連邦政府に対して裁判所の命令を実行するよう要請した。司法長官ロバート・ケネディはバーネット知事や大学当局に対し説得を開始し、大学側はメレディスの入学受け入れを決定した。しかしバーネットはあくまでも拒否の姿勢を貫き、州兵を動員して大学の周囲を固め、メレディスが大学へ入るのを妨害した。ケネディは州兵を連邦化する行政命令を出し、連邦保安官にメレディスを目立たぬように夜中に大学の寮内に連れ込ませた。しかしこれを知ったKKKメンバーをはじめとする人種差別主義者約2500人が暴動を起こした。ケネディはこの件に関する演説を行ったが、連邦保安官や連邦化した州兵では対処し切れなかったのでついに軍隊を動員してこれを鎮圧した(メレディス事件)。
この事件後、黒人学生を認めなかったほかの南部諸州も黒人学生の受け入れをはじめたがアラバマ州のジョージ・ウォラス知事だけは違った。この頃アラバマ州でも黒人学生が州立大学を相手取って裁判を起こし黒人側が勝っていたが、まだ最高裁での最終判決は出ていなかった。1963年4月、マーティン・ルーサー・キング牧師に率いられたデモ隊がアラバマ州バーミンガムに集結し、デモを行った。バーミンガムの警察長官ブル・コナーは見せしめ的な対応で徹底的に弾圧したが、キングらのデモ隊はひるむことなく毎日デモを続けた。このデモはアメリカ中に人種差別問題に関する世論を喚起する重要な役割を果たした。ケネディは司法省幹部によるバーミンガム市の地域リーダーの説得を続け、大学側に黒人学生の入学を認めさせることに成功し、また地元のレストランやデパートの中には黒人を客として受け入れ、職場も開放し始めるところもでてきた。しかし1963年5月11日、バーミンガム市内の黒人の住居やホテルが人種差別主義者によって爆破される事件がおこり、これをきっかけとして暴動が起きた。ケネディはすぐさま連邦軍を派遣し事態の収拾に努めた。1ヵ月後の6月11日、二人の黒人学生ジェームズ・フッドとヴィヴィアン・マローンが司法次官ニコラス・カッツェンバックにつきそわれてアラバマ州立大学の門前に到着した。司法長官ロバート・ケネディはウォラス知事に対して電話で妨害しないよう説得したが、ウォラスはこれを拒否し、州兵で大学の周囲を固めて自ら大学の門に立ちはだかった。ケネディは州兵を連邦軍に編入・指揮下に置くとともに大学周辺を関係者以外立ち入り禁止にし、バーミンガム郊外に連邦軍を集結させた。カッツェンバックが大統領布告を読み上げ、州兵の司令官が連邦政府の任務遂行を妨害するなら逮捕すると宣告し、ウォラスはようやく引き下がった。これにより全米50州の中で黒人学生を締め出す州はなくなった。
ケネディはそれまでは議会との対立を避け公民権法案の提出を見合わせていたが、アラバマ州立大学に二人の黒人学生が入学した1963年6月11日夕方、ケネディは、公民権運動を助けるためにより強い処置を講ずる時期が来たと決断し、議会への新しい公民権法案を提案し、テレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけた。『リンカーン大統領が奴隷を解放して以来100年間の猶予が過ぎた、彼らの相続人、彼らの孫は完全に自由ではない』と言った。アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理上によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送った。その中でケネディは「この法案は単に経済的効率のためでも外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた。この公民権法はケネディ政権下では成立しなかったが、その次のジョンソン政権下で議会を通過し、1964年公民権法として成立することとなった。
1963年8月28日にキング牧師がワシントン大行進でI Have a Dreamの演説を行った後、ケネディはキングをホワイトハウスに招待し、「私も夢見ている」と語った。
[編集] 組織犯罪との戦い
1957年、ケネディ兄弟がメンバーに名を連ねた上院マクレラン委員会は司法省に対して提言を行い、FBI内に対組織犯罪部門を設立するよう訴えたが、FBI長官J・エドガー・フーヴァーはその必要性を認めず拒否していた。そのためマクレラン委員会の活動が執行力を持つことはなかった。
1961年に政権に就くとケネディは早速組織犯罪撲滅作戦に乗り出した。この作戦の陣頭指揮を執ったのが司法長官に就任したロバート・ケネディだった。その第一段階として、1961年4月4日にニューオーリンズのドンと目されていたカルロス・マルセロを国外追放した(しかしマルセロはこの2ヵ月後に密かにアメリカに戻り、法廷闘争を開始して司法省側が敗訴し自由の身となった)。1962年9月になるとマルセロは国中のマフィアをニュー・オーリンズに集めてケネディ兄弟による組織犯罪調査を口をきわめて罵り、彼らの暗殺を示唆した。
ケネディ兄弟が最も力を入れたのが、マクレラン委員会時代からの積年の敵であるチームスター組合のジミー・ホッファであった。彼らはマクレラン委員会の調査資料に基づきホッファを法廷に引きずり出すことに成功した。ホッファは当初背任横領の罪で起訴されたが、陪審員の意見が分かれて未決となり放免された。しかしロバート・ケネディはこの裏にホッファによる脅迫と買収工作があった事実を突き止め、陪審員工作の罪でホッファを刑務所入りさせることに成功した。ケネディ兄弟が全力を傾けて刑務所送りにしたホッファだったが、1971年リチャード・ニクソン政権中に恩赦を受け釈放となった(のちに、いわゆる「ホッファ失踪事件」で行方不明)。
ケネディ兄弟は、父親のジョセフ・P・ケネディ・シニアと仕事上の関係があったイタリア系マフィアの大ボスでシカゴのドン、サム・ジアンカーナにも焦点を当てていた。ジアンカーナはジュディス・キャンベル・エグズナーをケネディに近づかせてケネディ兄弟と取引をしようとしたが、ケネディ兄弟は前にも増してジアンカーナの封じ込めを強め、1963年6月にはジアンカーナを完全張り込み下においた。このジアンカーナ封じ込めは司法省、商務省、国税庁などの連邦機関を総動員して組織犯罪の本拠地であるラスベガスを直撃するというロバート・ケネディが練った大戦略の一部であった。この戦略は1963年10月にほぼ完成していたが、ケネディ暗殺により取り止めとなった。
キューバやヴェトナムはアメリカの組織犯罪にとって麻薬の重要な中継地点であったため、ケネディのキューバ政策やヴェトナム政策も組織犯罪に打撃を与えた。
[編集] 経済政策
ケネディはアイゼンハワー政権末期から始まった不況への対策として、失業手当の13週間延長、失業者の子供への補助金、早期退職を奨励するための年金増額、最低賃金の向上、スラム再開発のための政府融資などの法案を通過させるとともに、各省庁の物資調達や公共投資の前倒しを行い、経済回復へと向かわせた。
ケネディは経済政策でも積極的な姿勢を示した。その最たるものが鉄鋼業界との対決であった。戦後から60年にかけて、鉄鋼業界の労使交渉ではストライキ、大幅な賃上げ、鉄の価格引き上げというパターンが続いていたが、それによる急激なインフレーションを懸念したケネディは鉄鋼業界の経営陣と労組の幹部をホワイトハウスに招き、労組の幹部に"責任ある"要求をするよう説得、労組側もこれを受け、経営陣が鉄価格の値上げなしに飲み込めるだけの賃上げ率に抑えた。しかしUSスティール社のロジャー・ブロー会長は従来通り値上げを通告し、それに合わせるように他の大手鉄鋼各社も続々と値上げを発表した。そのためケネディはこれを非難する演説を行い、司法省はこのような鉄鋼業界の値上げが独占禁止法違反に抵触するかどうかの調査を始め、国防総省は値上げに加わらなかった鉄鋼会社の材料を使ったメーカーのものを調達することを決定。このような政府の動きを受けて鉄鋼各社は値上げを撤回し、インフレは回避された。「ウォール・ストリート・ジャーナル」は政府が経済に介入するこのような事態に対して「政府の力による抑圧」であると批判した。ケネディは賃金や商品価格の設定は自由に行われるべきであるが、経済人には公共の利益に対する責任があると演説の中で訴えた。
ほかにもケネディは、石油業界に長年ほどこされてきた特典(利益の27.5%を必要経費として自動的に認める)を廃止しようと真剣に考えていた。また、消費者の権利保護に関する特別教書の中で消費者の4つの権利(安全を求める権利、選択する権利、知らされる権利、意見を反映される権利)を示した。
[編集] アポロ計画
さらにケネディは、アメリカが宇宙開発競争の先頭に立つことを熱望した。当時、ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニクを打ち上げたのをはじめ、その後も1961年に初の有人飛行を成し遂げるなど、宇宙開発については完全にアメリカに先立っており、彼はソ連に追いつこうと決心していた。そしてアメリカが宇宙開発競争で後れをとることはできないと言った。ケネディは、アメリカ人を月に到達させるというアポロ計画のために220億ドル以上承認してくれるように議会に依頼した初めての大統領だった。ケネディの死後、アポロ11号はついに月面に人類を送り届けることに成功したが、同時に莫大な開発費が、ベトナム戦争による戦費支出にあえぐ政府をさらに痛めつける結果となった。
[編集] 大統領顧問団
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ジョン・F・ケネディ | 1961–1963 |
副大統領 | リンドン・B・ジョンソン | 1961–1963 |
国務長官 | ディーン・ラスク | 1961–1963 |
財務長官 | C・ダグラス・ディロン | 1961–1963 |
国防長官 | ロバート・マクナマラ | 1961–1963 |
司法長官 | ロバート・ケネディ | 1961–1963 |
郵政公社総裁 | J・エドワード・デイ | 1961–1963 |
ジョン・グロノウスキー | 1963 | |
内務長官 | スチュワート・リー・ユードル | 1961–1963 |
農務長官 | オービル・フリーマン | 1961–1963 |
商務長官 | ルーサー・ハートウェル・ホッジス | 1961–1963 |
労働長官 | アーサー・J・ゴールドバーグ | 1961–1962 |
W・ウィラード・ウィルツ | 1962–1963 | |
保健社会福祉(厚生)長官 | エイブラハム・リビコッフ | 1961–1962 |
アンソニー・セレブレズ | 1962–1963 | |
国家安全保障担当大統領補佐官 | マクジョージ・バンディ | 1961–1963 |
CIA長官 | アレン・ウェルシュ・ダレス | 1961 |
ジョン・マコーン | 1961–1963 |
[編集] 最高裁判所判事
- バイロン・レイモンド・ホワイト - 1962
- アーサー・J・ゴールドバーグ - 1962
[編集] スキャンダル
[編集] 不倫
ケネディには大統領就任以前から、ハリウッド女優のマリリン・モンローなど多くの女性との不倫関係があったことが知られており、また、関係を持った女性の多くが裏でマフィアとの繋がりがあったことでも知られている。
特に「女友達」の一人であったジュディス・キャンベルは、父親のジョセフ・P・ケネディ・シニアと仕事上の関係があったイタリア系マフィアの大ボスサム・ジアンカーナの情婦でもあったことは有名である。2人とも、イタリア系マフィアと繋がりが深いことで知られたフランク・シナトラが紹介したといわれている。最近の研究ではケネディが幼少期の精神的ストレスを遠因とするセックス依存症であったとする意見もある。
[編集] 冷めた夫婦仲
ケネディの乱れた交友関係は妻ジャクリーンと結婚してまもないうちから始まったと言われており、結果妻との夫婦仲は冷え切りケネディ彼らは所謂「仮面夫婦」を大衆の前で演じていたという証言がある。だがしかし、ケネディは大統領に就任してすぐさま「理想の大統領」として祭り上げられたため、多くのマスコミはそのイメージを壊さないがために誰もがケネディのセックススキャンダルについては黙認し、生前は多くを語らなかった。
[編集] 健康問題
少年時代から病弱であったケネディは様々な病気に悩まされて第二次世界大戦後には副腎機能不全(アジソン病)との診断が下された。彼が、常に日焼けしたような皮膚の色であったのは、その症状の一つであった。 更にその後の手術の失敗で一時危篤に陥った事もある。その後、副腎機能不全は改善されたものの、大統領在任中もこの病気の他に、消化器系統の病気や左右の足の長さが2cmも違う事から来る体調不良など、様々な健康不安を抱えていた。このため、仮に暗殺されていなかったとしても、大統領に再選されて2期目の任期を全う出来たかどうかを疑問視する専門家もいる程である。
また、第二次世界大戦中の戦傷(背中)の後遺症に悩まされていた。ケネディがホワイトハウスで使用した椅子は、背中の痛みを緩和するために、大統領かかりつけの医師の協力によりデザインされた特注品である。椅子の背中はスプリングによるサスペンションが施され、さらに硬めのフォームにより背中を保持するようになっており、座面にも特殊なフォームが使用されている。全体は黒い革で覆われ耐久性も充分な物になっている。この設計の椅子はケネディ以降の大統領の多く(大統領は自分で使う椅子を選ぶことが出来る)にも愛用されている。
鎮痛のために、次第に薬物の過剰摂取となり、アンフェタミンなどの投与も受けていた。
ケネディの性格は分裂していたと言われる。高邁な理想を追う一方で冷淡なプラグマティズムに走ることもあった。分裂した性格は母ローズと父ジョセフから引き継いだと思われる。母からは道徳的で宗教的な教えを受け、父からは「十分な金と権力があれば、守らなければならない規則なんかない」と言われたことがあるという。
[編集] 暗殺
- 詳しくはケネディ大統領暗殺事件の項も参照。
ケネディは1963年11月22日に、遊説先のテキサス州ダラスの市内をオープンカーでパレード中に狙撃され、暗殺される。まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられた。暗殺の理由と暗殺者は以下のように多くの説があり、いまだに結論が得られていない。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためである。
衣料販売店を経営するエイブラハム・ザプルーダーによって撮られた暗殺の瞬間の8ミリ映像(「ザプルーダー・フィルム」と呼ばれている)は、ビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)、インターネットなどで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、「後方に」動いていることから、その致命的な射撃は「前方から」行われたとみられる。直後に大統領夫人が動揺した様子で頭が吹き飛んだ「後方に」目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、「後方に」吹き飛んだ大統領の頭の断片を拾うために「後方」部分に這い出たことを裁判で後に証言している。これは後の検証により単に危機回避をはかり車外に飛び出ようとしていただけではないかという説があるが、射撃しやすいオープンカーの後方部分に危機回避のために這い出したとするのは不自然である。
また、複数の一般人が、大統領が撃たれた場所の前方の丘の上に複数の銃を持った私服の人物がいたことや、前方から銃声音が聞こえたことを証言している上、警備中のダラス市警の警官が、撃たれた場所の前方で銃声と火薬の匂いがしたことを証言している。
これらの独立した直接的事実は、射撃はすべて「後方から」リー・ハーヴェイ・オズワルドによって行われたとする暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)による政府側報告書とまったく矛盾しており、政府側もしくは軍産複合体の巨大な陰謀が指摘される理由となっている。ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が政府側もしくは軍産複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある(なお、映画『JFK』はフィクションと歴史事実を意図的に混合しているので注意が必要である)。
いろいろな証拠を考え合わせると、まず後方(教科書倉庫付近。2箇所か?)、そしてすぐに前方(駐車場付近。頭部に命中)から射撃が行われた可能性が高い。
暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。ルビーは1964年3月に殺人罪で有罪判決が下されるが、事件について多くを語らないまま4年後に肺塞栓症によりダラスのパークランド病院で死亡した。
[編集] 悲劇のケネディ家
ケネディの死後、ワシントンD.C.で国葬が行われ、参列する大統領夫人のジャクリーン・ケネディや、まだ幼かった息子のジョン・F・ケネディJr.が亡き父の葬列に敬礼を送る健気な姿は全世界の涙を誘った。なお、ジャクリーンはギリシアの海運王アリストテレス・オナシスと1968年に再婚した。
実弟のロバート・ケネディはケネディ政権下で司法長官となり、兄ケネディの暗殺後、1968年の大統領選挙の予備選を戦っていた最中、カリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで遊説中に、不可解な状況下で大学生のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。なお、この事件についても疑問点が多く、暗殺の背景については現在に至るまで様々な憶測を呼んでいる。
末弟のエドワード・ケネディは長く上院議員を務め一時は大統領候補として取りざたされた事もあったが、1969年、ドライブ中に誤って川に転落し同乗していた女性秘書を水死させる事件(チャパクィディック事件)を起こした。事件後、警察への通報が9時間以上も遅れるなど不可解な行動に不審が持たれ、政治家としての求心力を失った。この事件によって事実上大統領への道は閉ざされることになった。
息子のジョン・F・ケネディJr.は1995年に大手出版社のアシェット・フィリパッキ・メディアから発行された政治雑誌「GEORGE」の発行人を務めており、将来の大統領候補※1と呼ばれていたが、ケネディ家の別荘のあるハイアニスポートに自家用機を操縦して向かう途中、大西洋上で墜落し不慮の死を遂げる。この様に多くの家族が不慮の死を遂げていることから「悲劇のケネディ家」と言われている。
※1Jrは政治的な野心を自らは表明してはいなかった。
[編集] ケネディの名を冠した施設など
ケネディの肖像は50セント硬貨に使用されている。また、キティホーク級航空母艦の4番艦(USS John F. Kennedy, CVA-67/CV-67)、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港、フロリダ州のジョン・F・ケネディ宇宙センターにその名が使用された。ケネディが卒業したハーバード大学にある行政・政治学大学院の名称は、アメリカ政治におけるケネディの貢献を記念してケネディスクール(John F. Kennedy School of Government)と改称された。
[編集] 関連項目
- ケネディ大統領暗殺事件
- マフィア
- ゴ・ディン・ヌー
- マダム・ヌー
- エドワード・R・マロー
- ベルリン危機
- キューバ・ミサイル危機
- 部分的核実験禁止条約
- 消費者の4つの権利
- ケネディ宇宙センター
- ジョン・F・ケネディ (空母)-キティホーク級航空母艦の4番艦。CV-67。
- 上杉鷹山-ケネディが日本の尊敬する政治家として挙げている。
[編集] ジョン・F・ケネディに関係する映画
- 『JFK』 - JFK
- 『JFK II - The Bush Connection』 - JFK II - The Bush Connection
- 『13デイズ』- 13 Days
- 『ダラスの熱い日』
[編集] ジョン・F・ケネディに関係する舞台
- 『JFK』 宝塚歌劇団雪組が1995年に上演。
[編集] ジョン・F・ケネディに関係する音楽
- 『ケネディと歌おう』 - Sing Along With JFK
[編集] 外部リンク
- JFKII The Bush Connection - Complete Documentary
- Wikiquote英語版 John F. Kennedy
- Biography of John F. Kennedy
- Inaugural Address
- Medical History
- Assassination of President Kennedy Encyclopaedia
- The Academic JFK Assassination Web Site
- JFK / The Kennedy Assassination Home Page
- First State of the Union Address of JFK
- Second State of the Union Address of JFK
- Third State of the Union Address of JFK
- ケネディ
- John Fitzgerald Kennedy Library Home Page
- ケネディ ジョン・フィッツジェラルド:作家別作品リスト(青空文庫)
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