桂藤兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桂 藤兵衛(かつら とうべえ)は落語の名跡。元は上方落語の名跡。当代は3代目を名乗り、東京の落語家。
月亭春松編の『落語系圖』には、京都落語界の大立者であった元川傳吉の桂藤兵衛を2代目としている。当代が3代目を名乗っている根拠は、これによると思われる。しかし、墓石や他の資料、当時の新聞等には、元川傳吉の桂藤兵衛を全て3代目としている。この項では、便宜上、元川傳吉の桂藤兵衛を上方3代目とし、当代を東京3代目とする。
- 初代 桂藤兵衛(1819年 - 1874年4月2日)は、初代桂文枝のあだ名。実際に自ら名乗っていたかどうかは不明。本名: 桂文枝。享年56。
- 2代目 桂藤兵衛(?)は、初代桂梅枝が名乗っていたという記録がある。初代桂文枝門下。本名、享年とも未詳。
目次 |
[編集] 上方3代目
3代目 桂藤兵衛(1849年 - 1902年5月31日)は、上方噺家。本名: 元川傳吉。享年54(51とも)。
大阪安治川通3丁目の米屋の子として生まれる。幼名は亀吉。17、8歳の頃、初代桂文枝門下となり、文馬(『落語系圖』によれば文車)を名乗り、九郎右衛門町の大富席の前座に出る。その後、暫く東京へ赴き、帰阪後、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)門下となり、文字助を名乗る。1885年3月、3代目桂藤兵衛を襲名。以降、京都・新京極の幾代亭に14年間もの長きに渡り出席、「桂藤兵衛藤原忠勝入道顋無齋(しむさい)」と自称し、京都の名物男となる。1898年夏、同じ新京極の笑福亭に移籍。
1900年正月、大阪に出、盲人音曲師の西國坊明學と組んで「藤明派」を立ち上げ、桂派・三友派と張り合うが、翌年秋頃、体調を崩して京都へ戻り、間もなく六角富小路下ルの自宅で病没。
「顋無齋」の名乗りの通り、顎が短く、眉太、色黒で、木魚に目鼻を付けたような顔で、丸々とよく肥えた愛嬌たっぷりの人気者であった。木遣崩し、オッペケペー節、郭巨の釜堀(テケレッツのパー)などをはやらせ、『三十石』の舟唄を得意としたという。
[編集] 東京3代目
3代目 桂藤兵衛(1952年1月13日 - )は、東京都出身の落語家。本名は上弘明。落語協会所属。出囃子は青すだれ。趣味は料理、競馬、落語である。
[編集] 略歴
- 1969年6月 8代目林家正蔵(後の林家彦六)に入門。8番弟子となる。前座名は林家上蔵。
- 1974年11月 二つ目昇進。
- 1982年1月 師匠彦六死去。師匠没後は弟弟子林家正雀と共に正蔵一門の2番弟子であり、兄弟子である橘家文蔵一門に移籍。
- 1983年4月 弟弟子正雀が先に真打昇進となる。
- 1984年9月 真打昇進。3代目桂藤兵衛を襲名。
[編集] 出典
- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、1989年、ISBN 458212612X)