桑田隆幸
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桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手、日本代表選手、サッカー指導者。日本サッカーリーグ(JSL)初代アシスト王。日本サッカー協会公認C級指導員。
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[編集] 来歴
1959年、広大付属高校時代は同級生の野村尊敬、1年後輩の小城得達・桑原楽之・溝手顕正・船本幸路とともに全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝。1959年、1960年、クアラルンプールで開催された第1回、第2回アジアユースサッカーの日本代表にも選ばれ1960年には主将を務めた。進学した早稲田大学でも同級生の野村・松本育夫、2つ下の二村昭雄・森孝慈、3つ下の釜本邦茂らと共に同大学ア式蹴球部の黄金期を創った。1963年には日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。卒業後1964年、地元の東洋工業へ入社、東洋工業サッカー部へ入団した。
東洋工業では小城、桑原、船本、石井義信、小沢通宏、今西和男らとともに、天皇杯優勝3回 、日本リーグ(JFL)優勝5回に貢献した。2列目から飛び出し、突進して目のさめるシュートでゴールを奪うMFとして活躍、特に大学時代からの同級生で同期入社の左ウイング・松本とは抜群のコンビを見せた。1966年の第2回日本サッカーリーグでアシスト王に輝いている(第1回大会はアシスト王の表彰制度がなかったため、同リーグ初代アシスト王)。
また、日本代表では1962年8月にジャカルタで開催された第4回アジア大会に日本代表として出場(第1戦のタイ代表戦では1ゴールをマーク)した他、1960年代に開催された親善試合(国際Aマッチ以外も含む)で大活躍した。
1969年に家業を継ぐことになり東洋工業を退社。
その後は広島県1部リーグの広島FC監督などを務め、2004年3月から岡光龍三の後を受け、広島経済大学サッカー部監督に就任し、現在も活躍している。
[編集] 所属クラブ
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
- アジア競技大会(1962)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 5試合 2得点(1961-1962)
- 国際Bマッチ 4試合 0得点(1962-1967)
- 国際Cマッチ 17試合 5得点(1960-1967)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1960年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 |
1961年 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 2 |
1962年 | 3 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 |
1963年 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1964年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1965年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1966年 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 1 |
1967年 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 5 | 2 | 4 | 0 | 17 | 5 |
(誤差は不明)
[編集] 外部リンク
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