梅原龍三郎
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梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 - 1986年(昭和61年)1月16日)は、大正から昭和にかけての洋画家である。京都府京都市下京区の生まれ。
1914年(大正3年)までは名を良三郎と名乗るが、この名を本名とする説と、出生時に龍三郎と名付けられたが良三郎に改名していたとする説がある。 画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ、自由奔放と評される。第二次大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨した。
晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエが山梨県北杜市の清春芸術村に移築され公開されている。
[編集] 生涯
- 京都府京都市下京区に生まれる。生家は染物問屋であった。
- 京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦に絵を学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(後の関西美術院)に入る。同時期に安井曾太郎も学んでいた。
- 1908年(明治41年)に田中喜作(後に美術史家となる)と共にフランスに留学。パリに滞在しアカデミー・ジュリアンに通った。
- 1909年(明治42年)にピエール・オーギュスト・ルノワールの指導を受ける機会を得た。知人の有島生馬を通じて、1910年(明治43年)にはルノワールについてや、パリの芸術について、雑誌『白樺』に寄稿している。
- 1913年(大正2年)に帰国し、東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社の主催で開催。この際に白樺社同人の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦との知遇を得た。その後1914年(大正3年)の二科会の設立に関わる。同年結婚し長女と長男が生まれた。
- 1920年(大正9年)に再び渡仏するが、前年に死去したルノアールの弔問のためでもあったという。
- 1922年(大正11年)に春陽会の設立に参加。その後、春陽会を去り、1925年(大正14年)に土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部(第2部と称した)を設置した。1928年(昭和3年)に国画創作協会が解散した際に、洋画部が独立し「国画会」となった。
- 1935年(昭和10年)に帝国美術院(現在の日本芸術院)会員となる。1944年(昭和19年)には帝室技芸員、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授となる。
- 1952年(昭和27年)に東京芸術大学教授を辞任し、渡欧しベネチア・ビエンナーレの国際審査員を務めた。同年に文化勲章を受章。1953年に軽井沢にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)に日本芸術院会員を辞任。
[編集] 主な作品
- 「立裸婦」(1915 年、佐倉市立美術館蔵)
- 「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館蔵)
- 「紫禁城」(1940年、大原美術館蔵)
- 「北京秋天」(1942年、東京国立近代美術館蔵)
- 「霧島(栄ノ尾)」(1938年、西宮市大谷記念美術館蔵)