森長継
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森 長継(もり ながつぐ)は、美作津山藩の第2代藩主。後に備中西江原藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長15年(1610年) | |||
死没 | 元禄11年7月11日(1698年8月16日) | |||
別名 | 兵助(幼名)、関家継(初名) | |||
戒名 | 長継院殿静林道岳大居士 | |||
墓所 | 東京都港区東麻布の瑠璃光寺 | |||
官位 | 従四位下、侍従、大内記 | |||
藩 | 美作津山藩主→備中西江原藩主 | |||
氏族 | 関氏→森氏 | |||
父母 | 父:関成次 母:森忠政の3女・於郷(渓花院) 養父:森忠政 |
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兄弟 | 森長継、関長政、関衆之 | |||
妻 | 正室:池田長幸の娘・お鶴(大御前) | |||
子 | 森忠継、森長武、森長俊、関長治、 森長直、関衆利、娘(松平吉品室)、 娘(松平昌親室)、娘(鳥居忠則室)、 娘(一条兼輝室)、娘(森三隆室)、 娘(毛利元次室)、娘(保科正賢室)、 娘(松平信政室)、娘(松平康雄室) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
慶長15年(1610年)、森忠政の重臣・関成次の長男として生まれる。忠政の実子は全て早世したため、忠政の外孫(長継の生母は忠政の三女)に当たる長継が忠政の養子に選ばれたのである。そして寛永10年(1633年)、忠政が死去したため、その後を継いで藩主となった。
[編集] 津山藩主
藩政においては、忠政の施策を受け継いで城下町の整備や拡大、山林検地、用水路開削、溝地の築堤、新田開発、寺社の再興など、津山藩の藩制確立に尽力した。承応元年(1652年)12月、弟の関長政に1万8700石を分与し、支藩である宮川藩を設立している。
嫡男の忠継は早世し、その忠継の嫡男・森長成は幼少のため、延宝2年(1674年)4月26日、五男の長武に家督を譲って隠居した。このとき、2万石の隠居料を得ている。
[編集] 隠居後
後を継いだ長武は、あくまで長成が成長するまでの代つなぎだったため、貞享3年(1686年)5月27日、長武は長成に家督を譲って隠居した。ところがその長成は1697年、嗣子無くして死去してしまった。このため、長継は弟の関衆之の養子となっていた自分の24男・関衆利を長成の継嗣として認めてもらうよう、幕府に訴える。幕府もこれを承諾したが、肝心の衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で発狂したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森氏は改易されてしまったのである。
ただし、幕府は長継に新たに備中西江原藩2万石を与えることで、森氏の存続を許した。元禄11年(1698年)7月11日に長継は江戸芝屋敷で波乱の生涯を閉じた。享年89。後を23男の森長直が継いだ。
[編集] 子孫
隠居後も存命していたことが、森氏の断絶を免れたといえる。また、側室だけでも10人、子は男児だけでも24人はいたとされており、森氏の本家はその後、忠臣蔵事件で断絶した浅野氏の播磨赤穂藩主として明治時代まで存続した。そのほかに、分家も小藩として明治時代まで存続している。
なお、長継の子のほとんどは、長継より先に死去している者が多かった。
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