横浜市電
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横浜市電(よこはましでん)は、横浜市交通局が運営していた路面電車である。
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[編集] 概要
横浜市の中心部・旧市街地を主として運行していた。車両は単車が多く使用され、塗色も青を基調としたものが採用されていた。(上半分クリーム・下半分青、上下青・窓回りクリーム等、最晩年は黄色に青帯)運転系統は循環系統が多く、特徴の一つとされていた。前身の横浜電気鉄道以外に買収路線が無く、また廃車後他社に渡った車両も皆無だった。ワンマン化は遅れ、全廃一年前に漸く全てワンマン運転となった。
戦後、市街地が急拡大し、また交通量も増加。輸送力や路線網、渋滞の原因となった路線敷等あらゆる意味で市電は中途半端な存在となり、交通局の財政悪化も繋がって全線廃止への一途を辿った。
市電廃止後、何両かの市電車両が横浜市電保存館にて保存されている。
日活映画『夜霧よ今夜も有難う』では石原裕次郎、浅丘ルリ子が市電で移動する場面が見られる。
[編集] 沿革
- 1904年7月15日 横浜電気鉄道の手により、神奈川-大江橋間開業
- 1921年4月1日 横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。
- 1923年9月1日 関東大震災。焼失した車両の穴埋めに、焼け残った車両を使用した屋根無しの「バラック電車」を運行。また、水道が復旧するまでの間、散水車を給水車に代用して好評を得る。
- 1928年11月10日 市営バス開業。
- 1946年6月1日 横浜市電気局、横浜市交通局に改称。
- 1959年7月16日 トロリーバス開業。
- 1956年4月1日 井土ヶ谷線(保土ケ谷橋-通町一丁目間)の開通で最盛期を迎える。
- 1966年8月1日 生麦線(生麦-洲崎神社前間)、中央市場線(神奈川会館前-中央市場間)廃止。市電撤去始まる。
- 1967年12月18日 ワンマン運転を開始。(4・5系統より)
- 1971年3月21日 車掌の乗務を廃止。
- 1972年3月31日 市電・トロリーバス全廃。
[編集] 車両
- 500型 横浜市電を代表する大型単車。1928年製。高馬力。
- 1100型 戦前はクロスシートが設置されていた。1936年製。
- 1150型 外観は1500型に類似。ただし性能は旧型車と同一。1952~59年製。東武日光軌道線の100形にも似ている。
- 1500型 戦後各都市で製造されたPCCカーの一種。1951年製。
- 1600型 戦後の混乱期に製造された800型単車を置き換えるために、局工場で6両製造された最後の新車。1957年製。外観は大阪市電3001形の車体に、京都市電700形の4枚折戸を取り付けたような車体となっていて、軽快で近代的な印象を受ける。ただ横浜市電では前中式の乗降扉配置が嫌われたのか、ワンマン改造は受けずに、1970年の本牧線廃止を機に全車廃車された。
[編集] 特徴のあった区間
- 山手隧道 元町-麦田町間。全長276m。市電専用のトンネルとしては全国でも例を見ない本格的な物。現在は本牧通りの北行自動車専用トンネル。
- 鶴見線 生麦-鶴見駅前間。第一京浜国道上に敷設。1944年8月10日軍部の命で建設され、1945年10月30日GHQの命で埋設された短命路線。その後道路幅等の問題で二度と運転を再開しなかった。なお、鶴見終点の位置は実際は駅前でなく、現在の鶴見警察署前。
[編集] 車庫
- 生麦車庫 生麦電停前。生麦事件現場に近く、京浜急行電鉄生麦駅からは離れている。第一京浜国道(国道15号)沿い。
1928年6月1日開設。1966年8月1日廃止。現在は横浜市営バス鶴見営業所。 - 浅間町車庫 浅間町車庫前電停前。環状一号線沿い。
1927年12月20日開設。1969年に市電としての使用は取りやめ。現在は横浜市営バス浅間町営業所。 - 麦田車庫 麦田町電停前。本牧通り・柏葉通り麦田交差点脇。
1911年留置線完成。1928年3月3日車庫完成。1970年7月1日廃止。現在は老人福祉センターとテニスコート。 - 滝頭車庫 滝頭電停前。国道16号沿い。車両工場を併設。交通局庁舎が設置されていたこともある市電の要所。
1912年4月13日開設。1972年3月30日市電全廃と運命を共にする。現在は横浜市営バス滝頭営業所。横浜市電保存館もある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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