利用者:橋川桂/memo
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[編集] 4横綱
番付上に最も多くの横綱の出揃ったのは4人までで、2006年現在15通りの例がある。
最初の4横綱は、大正6年(1917年)5月場所、太刀山峯右エ門、鳳谷五郎、西ノ海嘉治郎、大錦卯一郎によって実現した。翌大正7年(1918年)5月には太刀山引退と入れ替わりに栃木山守也が昇進し、同場所で西ノ海が引退するまで連続3場所4横綱時代が続いた。
同じ顔ぶれでもっとも長く続いた4横綱時代は千代の山雅信、鏡里喜代治、吉葉山潤之輔、栃錦清隆による14場所。昭和30年(1955年) 1月場所で栃錦が昇進してから、33年(1958年)1月場所後に鏡里と吉葉山が同時に引退するまで続いた。4横綱の皆勤は昭和31年(1976年)3月の1場所きりとなったものの、8場所で4横綱のいずれかが優勝、吉葉山に優勝のないのをのぞいて、他の3横綱が複数回の優勝を果たしている。
現行の年6場所制定着後でもっとも長かった4横綱時代は、柏戸剛、大鵬幸喜、栃ノ海晃嘉、 佐田の山晋松による11場所で、昭和40年(1965年)3月から41年(1966年)11月まで。実質の4横綱皆勤は40年9月の一度きりとなったが、全盛期の大鵬を中心に11場所すべて4横綱のいずれかが優勝している。
4横綱皆勤のもっとも多かったのは、輪島大士、北の湖敏満、若乃花幹士 (2代)、三重ノ海剛司だが、それでも3場所にとどまる。4横綱に粗製乱造の批判の声が出るのも、この点ではしかたのないことになる。
[編集] 総当り
4横綱の総当りは、春秋園事件の余波による系統別総当り制の実施されていた、昭和13年(1938年)5月場所、玉錦三右エ門、武蔵山武、男女ノ川登三、双葉山定次によって初めて実現した。前場所すでに双葉山が横綱に昇進して4横綱がそろっていたが、武蔵山の休場によって総当りは見られなかった。横綱戦の内訳は、双葉山3戦全勝、武蔵山2勝1敗、男女ノ川1勝2敗、玉錦3敗。玉錦の翌場所前の急逝や、東西制への復帰もあって、4横綱総当りは戦前ではこの1度きりとなった。