永井直勝
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永井 直勝(ながい なおかつ、1563年(永禄6年) - 1625年3月5日(寛永2年1月27日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。長田重元の長男。官位は従五位下。右近大夫。通称 伝八郎。正室は阿部正勝の娘。子に尚政、直清、直貞、土屋利直室。
[編集] 生涯
はじめ徳川家康の嫡男・松平信康に仕えたが、天正7年(1579年)の織田信長の要求により信康が自刃すると、徳川氏から去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召しだされて再び家臣となる。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取るという功績を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。大坂の陣にも参戦して戦功を上げる。元和3年(1617年)に常陸国笠間藩3万2000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、常陸国笠間藩を浅野長重に譲って、代わりに下総国古河藩において7万2000石を与えられた。
寛永2年(1625年)、63歳で死去。後を長男の永井尚政が継いだ。美青年であったと言われている。
[編集] 逸話
一説によれば、家康が娘の督姫(北条氏直未亡人)と池田輝政(恒興の子)の縁談を進めようとした際、輝政から「父(池田恒興)を討ち取った男は、今は何をしているのか?」と訊ねられた家康は直勝が5000石で仕えていると回答したところ、輝政は突然激怒して縁談の中止を言い出した。事情を訊かれた輝政は「父が戦場で討たれて死んだ事は仕方のないところである。だが、その首に5000石の価値しかない男の息子では、徳川殿の婿には不釣合いであろう」と言うのである。そこで家康は慌てて直勝に5000石を加増して1万石の大名にしたところ、輝政はようやく機嫌を直したと言うのである。
残念ながら、この話の真偽については不明である。
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