浅野長重
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浅野 長重(あさの ながしげ、天正16年(1588年) - 寛永9年9月3日(1632年10月16日))は、江戸時代前期の武将(大名)。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の曽祖父にあたる。幼名は又一郎(またいちろう)、通称は長兵衛(ちょうべえ)。官位は従五位下采女正(うねめのしょう)。初名は長則。
浅野長政の三男として近江国に生まれる。母は浅野長勝の娘。兄に浅野幸長と浅野長晟がいる。母の姉が豊臣秀吉に嫁いでいる関係で浅野氏は豊臣時代に優遇され、秀吉は、長重を嗣子がなかった下野国の豪族宇都宮国綱の養子にさせようと宇都宮家に働きかけをおこなった。文禄2年(1593年)5月に国綱は一度了承したものの、国綱の弟である芳賀高武の反対によりこの計画は中止となった。
慶長4年(1599年)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から将軍徳川秀忠の小姓として仕えるようになった。この年春に従五位下采女正に叙任した。また7月には秀忠が上杉征伐のために出陣し、長重も従軍を希望したが、まだ15歳になっていないとの理由で江戸へ戻された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの浅野一族の戦功は著しかったので、慶長6年(1601年)長重に下野真岡藩2万石(皮肉にも芳賀高武の旧領である)が与えられた。さらに慶長7年(1602年)には松平家清の娘で徳川家康の養女と結婚。慶長10年(1605年)の秀忠上洛にもお供した。慶長16年(1611年)に父浅野長政が隠居料として与えられていた常陸真壁藩5万石を相続し、真岡2万石は幕府に返上する。
徳川家康の長重への信任は厚く、慶長19年(1614年)に小田原藩主大久保忠隣が改易された際には安藤重信・本多忠朝とともに小田原へ赴いている。また同年の大坂の陣にも出陣し、夏の陣の道明寺口合戦では先陣をきって毛利豊前守勝永軍と戦い、浅野家は家臣30人・雑兵100人あまりを失ったが、大阪方の首級60をあげるという活躍をした。また天王寺合戦では大石内蔵助良勝が活躍し、この戦功をもって大石家は浅野家の永代家老家とされた。忠臣蔵の大石内蔵助良雄は彼の子孫である。
徳川家康の死後、秀忠が実権を握ったが、長重は秀忠からの信任も厚く、元和8年(1622年)に本多正純が改易となった際には宇都宮城の収城使をつとめている。またこの年に秀忠から加増転封させるという内意を受けたが、長重は「自分は父長政の菩提寺のある真壁を離れたくない。加増は不要だから真壁を領有させてくれ」と答えたという。この望みは認められ、真壁を含んで5万3,500石とされ、笠間藩主に転じた。しかし長重が本領笠間へ入ることはほとんどなく、領地にいるときは大抵を真壁で過ごした。よほど愛着があったものと見られる。
寛永4年(1627年)には陸奥国若松城に在番し、寛永6年(1629年)には江戸城西丸の普請に携わった。寛永9年(1632年)9月3日に死去。享年45。浅野長政と同じ真壁伝正寺に葬られた。法名は華岳院殿鋳山道牛大居士。家督は長男浅野長直が継いだ。
正室は徳川家康の養女(松平家清の娘)。子に長直、浅野長治室、松平忠武室ら。
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