津軽信敏
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時代 | 江戸時代 | |||
生誕 | 正保2年(1646年) | |||
死没 | 天和3年9月13日(1683年11月1日) | |||
氏族 | 津軽氏 | |||
父母 | 信英 | |||
兄弟 | 信敏、信純 | |||
子 | 政兕、次男、信隣(主税) |
津軽信敏(つがるのぶとし、正保2年(1646年) - 天和3年9月13日(1683年11月1日))は江戸時代の大名。
津軽黒石藩初代信英の長男。跡を継ぐ。相続時は5千石だったが、弟である信純に上州領半分など1千石を分知(黒石支藩、黒石別家)。4千石となる。
黒石は英邁で聞こえた先代信英の治世により、業種別の町割を奨めていたが、信敏はさらに「一町一業種一年間無税のお触れ」を出すなど、商業振興に勤めた。
- 寛文3年(1663年)1月、15歳で家督を継ぎ、二代領主となる。(正確には黒石藩は交代寄合の旗本であり、藩主とは呼ばない場合もある。)
- 延宝2年(1674年)、先代であり、父親である信英の13回忌に、信英霊廟を弘前藩本家4代藩主・信政と共に参拝し、石灯篭などを建立(黒石神社に現存)。
- 天和2年(1682年)、上州大館に、大館八幡宮を再興する(同地に本殿現存)。
- 天和3年(1683年)9月13日、38歳で死去。家督は、長男の政兕が相続した。
若い頃から鷹狩りを好んだらしいことが、黒石の神社に伝わる伝承により推測される。
[編集] 外部リンク
- 黒石市HP(市章に黒石支藩の家紋が使われている)
- 黒石藩祖信英と黒石神社(黒石市HPより)
[編集] 関連項目
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