津軽政兕
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津軽政兕(つがるまさたけ、寛文7年6月10日(1667年7月30日) - 寛保3年1月25日(1743年2月19日))は、津軽弘前藩分家の黒石藩三代当主(当時黒石藩は4000石の交代寄合格旗本だったため、「藩主」ではない)。父は黒石藩二代・信敏。官位は正六位下、釆女正。通称・津軽采女。日本最古の釣り指南書「何羨録」の著者として知られる。
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[編集] 年表
- 寛文7年(1667年) 津軽信敏の嫡男として生誕
- 天和3年(1683年)12月 家督相続。禄高4000石。交代寄合格。
- 貞享3年(1686年)9月、米沢藩主上杉綱憲の養女(実父・吉良義央(吉良上野介))阿久里と婚姻
- 貞享4年(1687年) 阿久里、死去。生類憐みの令開始。釣りも一応禁止されるが「釣魚は武士の修練の内」とされ、黙認されていた。
- 元禄3年(1696年)11月23日、桐間番。12月2日、五代将軍徳川綱吉の小姓となる。
- 元禄6年(1693年) 小姓御役御免。小普請再編入。
- 元禄11年(1698年) 生類憐れみの令違反により、絵師・英一蝶が島流し。同時期頃より釣り道具の販売が禁止される。
- 元禄15年(1702年)12月14日 元・赤穂藩士数十名、采女の義父・上野介義央を殺害(元禄赤穂事件)。翌朝、吉良邸に真っ先に駆けつけたのが津軽采女主従。35歳。
- 宝永5年(1705年) 綱吉、没。
- 宝永6年(1709年) 新井白石が幕府に登用参画。次いで生類憐みの令廃止。釣り公式解禁。
- 享保8年(1723年)何羨録著。
- 寛保3年(1743年) 没。黒石藩は実子津軽寿世(ひさよ)が相続。
- 宝暦2年(1753年)4月 黒石市牡丹平の八幡宮境内に馬術調律のため馬場(現存)を開設した、と伝承記録されているが、死亡年と合致しない。
[編集] 逸話
旗本津軽采女の屋敷は江戸本所三つ目橋南側とあり、これはかの芭蕉庵の近所となる。 松尾芭蕉と津軽采女は同時期の人物であり、面識はなくともすれ違っていた程度の縁はあったかもしれない。(そもそも芭蕉庵(本所芭蕉庵)自体が生簀の番小屋を改装したものであり、なにやら釣りとの奇縁を感じる) 芭蕉が風雅の目で隅田川を眺めている足元にて、津軽采女が釣果を求めて釣りをしている図を想像してみたい。
[編集] 性格
以下は、彼の著書何羨録序文である。 この一文に釣りの真髄および、采女の生涯の心情が読み取れる。
嗚呼、釣徒の楽しみは一に釣糸の外なり。 利名は軽く一に釣艇の内なり。 生涯淡括、しずかに無心、しばしば塵世を避くる。 すなわち仁者は静を、智者は水を楽しむ。 あにその他に有らんか
以下は意訳である。
あー、釣り人の楽しみはやっぱ”釣果”に尽きるでしょう。 社会的名誉とかはどうでもいいかなぁ。 だけど生きていくと、どうしてもなにかと煩わしい。難しいもので。 だから自分は時々、そんなことは忘れることにしている。 つまり 仁(この場合は慈悲や憐憫)の心を持つ者は静かに暮らし、 智恵のある者は水に楽しむ(釣り)のだ。
遥かのちの、それも異国の人ではあるが、かの世界恐慌に在任中遭遇し、さらに楽観論により国内経済を悪化させてしまった(なんとも間の悪い)アメリカ合衆国第31代大統領ハーバート・フーヴァーはこう言っている。
「魚釣りをしていると、人間社会の騒々しい鉄槌から逃避できる。 わたしが自由な天地に逍遥することができる、ただひとつのなぐさみである」
両者の”釣り人”の心情に、近しいなにかを感じはしないだろうか。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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