浅野長純
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浅野 長純 (あさの ながずみ、宝永4年(1707年)頃 - 宝暦4年7月13日(1754年8月30日))は、江戸時代中期の旗本。忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩の弟浅野大学長広の子。通称は政次郎(まさじろう)、大学(だいがく)、長兵衛(ちょうべえ)。
兄の刃傷事件に連座して広島藩浅野家にお預かりになっていた浅野大学長広の長男として誕生。母は伊勢国菰野藩主土方市正雄豊の養女(雄豊の早世した嫡子土方杢之助豊高の娘)。宝永7年(1710年)9月16日、父長広が再び幕府に500石旗本として出仕することが許された。享保8年(1723年)2月9日はじめて将軍徳川吉宗に謁見。享保9年(1724年)7月19日に父長広の隠居で家督500石を相続。延享2年(1745年)9月13日に小姓組番士に列したが、のちに小普請役に落とされた。宝暦4年(1754年)7月13日に死去。享年48。赤穂浅野家の菩提寺である江戸高輪泉岳寺に葬られた。法名は伊園。妻は村上源左衛門正方の娘。後妻は牧野播磨守忠列の娘。家督は子の浅野長延が継いだ。
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