満天姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
満天姫(まてひめ、天正17年(1589年)? - 寛永15年3月22日(1638年5月5日))は、安土桃山時代~江戸時代の女性で、徳川家康の異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘である。
伯父・家康の養女となり、はじめ慶長4年(1599年)に福島正則の養嗣子・福島正之(正則の姉の夫・別所重宗の七男)に嫁ぐ。が、慶長12年(1607年)、正之が乱行のため幽閉され死去するに至り、正則の判断もあって実家に帰った(その後、義理の兄弟である福島忠勝に嫁ぐ、ともされる)。しかしこのとき満天姫は正之の子を身ごもっており、程なく男児を出産する。
慶長18年(1613年)、南光坊天海の進言もあり、家康は満天姫を津軽弘前藩主・津軽信枚に再嫁させることにした。だが信枚にはすでに妻がいた。石田三成の三女・辰姫である。津軽信建は小姓仲間の・石田重成と辰姫を関ヶ原の戦いの後に津軽に匿っていた。
結局、辰姫は関ヶ原の戦いの論功として津軽家が得ていた飛び地領の上州大館村(現在の群馬県太田市(旧尾島町))に移されることとなり、満天姫は正室として迎えられた。正之との間にもうけた男児も一緒だった。このとき満天姫は、家康が描かせた「関ヶ原合戦図屏風」を泣いて懇願し、嫁入り道具として持参したという。なお、この「関ヶ原合戦図屏風」は国の重要文化財に指定されており、現在は大阪歴史博物館が所蔵している。
だが信枚は辰姫のことが忘れ得ず、参勤交代の際には必ず大館村の辰姫の居館に立ち寄り、睦み合っていた。その結果ついに辰姫は身ごもり、元和5年(1619年)、男児を出産する。男児は平蔵と名付けられた。信枚は平蔵を自分の跡取りにしたいと満天姫に懇願した。一方満天姫も元和6年(1620年)、男児を出産する。
辰姫は元和9年(1623年)に32歳で亡くなったため、ついに満天姫も覚悟を決め、上州大館村から平蔵を迎え入れ、信枚の跡取りとして自ら育てることにした。この平蔵は、後に信枚の後を次いで弘前藩第3代当主津軽信義となる。
一方、満天姫が福島正之との間にもうけた男児は、弘前藩の家老となっていた大道寺直英(後北条氏家臣大道寺政繁の養子)の養子に出され、大道寺直秀と名乗ることとなった。また、満天姫が信枚との間にもうけた男児は、信枚の二男として満天姫が育てた。この男児は、後に弘前藩の支藩・黒石藩の祖である津軽信英(のぶふさ)となる。
寛永8年(1631年)、信枚が亡くなり、信義が3代藩主となった。以後、満天姫は葉縦院と号するようになる。
一方、結局弘前藩の跡取りになれなかった大道寺直秀は、自らは福島正則の孫であるとして、このときすでに改易され一旗本にまで身分を落としていた福島家の大名家再興を考えるようになり、しきりに活動するようになる。葉縦院は、直秀の活動は幕府の心証を害し、津軽家に災いとなると考え、苦々しく思い、直秀を諫めていた。だが直秀は一向に考えを改めることなく、ついに江戸へ上って幕府に福島家再興を訴えると言い出した。寛永13年(1636年)、江戸に出発するため葉縦院の居所へあいさつにきた直秀は、葉縦院に進められるまま杯をあけると、急に苦しみだし、死んでしまう。毒が盛られていたのである。
寛永15年(1638年)、葉縦院(満天姫)は弘前で生涯を終えた。
その後の上州津軽領2千石は、満天姫の子である津軽信英が本家より分家した際、その領地に含まれることになった。