満州国軍
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満州国軍とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。
当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。
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[編集] 満州国軍の軍制
[編集] 指揮系統
各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に執政(溥儀の皇帝即位後は皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。
[編集] 士官以上の階級
満州国では士官以上の階級を「将」「校」「尉」に分け、さらにそれぞれを三等に分けて下記のような三等九級に分けた。
満州国軍では軍官学校(日本でいう士官学校)を卒業後、まず少尉に任官する。少尉を満2年で中尉へ、中尉を満2年で上尉へ、上尉を満3年で少校へ、少校を満3年で中校へ、中校を満3年で上校へ、上校を4年で少将へ、少将を3年で中将へ、中将を4年で上将へ、と昇進していく。上将は軍の最高位であり、終身職でもある。
上将の上には日本の元帥府に相当する将軍府が設置されており、これは名誉称号である。張景恵、張海鵬、于芷山、吉興の4人に「将軍」の称号が与えられている。
[編集] 満州国軍の変遷
[編集] 満州国軍創設当時(1932/4)
1932年4月15日公布の陸海軍条令により、満州の国軍が創設された。当初は当時の軍閥の軍隊に関東軍からの顧問を据えただけの構成であり、その主要任務は「国内の治安並びに辺境及び江海の警備」(陸海軍条例第1条)であった。
また、1932年9月15日締結の「日満議定書」には、満州国の国防を満州と日本の共同で担うべく、日本軍(ここでは関東軍)の駐屯を公式に認めている。これによって「関東軍」と「関東軍の顧問を織り込んだ満州国軍」との非常に分かりにくい「二元国防体制」が公式に成立した事になる。この分かり難さが、満州国を傀儡政権と言わしめる根拠といえば言えなくもない。
[編集] 部隊構成
部隊構成は下記のとおり分類できる。洮遼警備司令官を除いてそれまでの軍閥の配置そのままであったりと、「取り急ぎ」感が否めない。
- 軍政部(兵数:130人)
- 中央で軍政を掌握していた部局。
- 洮遼警備軍(兵数:16,200人)
- 担当区域:通遼、奉平、昌圓、梨樹、懐徳、雙山、遼源、開通、膽楡、安廣、鎮東、洮安、洮南、秦來、突泉県の東部、景星県の西南部
- (新京(現・長春)の西側、北はチチハルの南側、南は奉天の北側までを管轄していた。)
- 奉天省警備軍(兵数:17,153人)
- 担当区域:洮遼警備司令官の担当区域外の奉天省
- 吉林省警備軍(兵数:44,692人)
- 担当区域:吉林省
- 黒龍江省警備軍(兵数:43,485人)
- 担当区域:洮遼警備司令官の担当区域外の黒竜江省
- 興安省警備軍(兵数:12,921人)
- 担当区域:興安省
- (1932/4の満州国軍創設当時には存在せず。1932/9までに追加設置された模様)
- 江防艦隊(兵数:392人)
尚、上記部隊の要員数は1932/9時点のものであり、当時満州国軍政部最高顧問であった多田駿少将が陸軍省に宛てた報告書(国立公文書館所蔵「満州国軍事顧問並軍事教官一覧表外の件」)に従った。
[編集] 日系軍官
満州国軍には創設当初から日本人が顧問、教官として所属していた。軍事顧問以外の部隊長等にも日本軍から転籍してきた日系軍官が配されることがあった。
顧問の中に、1928年の張作霖爆殺事件の首謀者である東宮鉄男大尉の名が見られる。
[編集] 海軍兵力
1932年2月に発足した江防艦隊がその起源である。艦隊とはいっても、陸軍として編成された軍閥が所有していた5隻の軍艦(小型の砲艦・警備艇)を編成したものであった。当初は満州駐在の日本海軍が支援していたが、その後海軍は江防艦隊から手を引き、海辺警察隊(後述)の支援に回ったたため、陸軍の一部隊となった。
当初は主に河川部の国境警備を担当していたため、河川が凍結する冬季には、海軍兵も上陸して陸戦隊として勤務していた。
このため、実質的な海上兵力は海辺警察隊が担っており、独自の航空隊も存在した。主力艦船は「海威」級で、旧日本海軍「樫」級が引き渡されたものである。この海辺警察隊は領海警備・密輸取締りなど沿岸警備隊的な組織であるが、終始日本海軍が支援しており、士官・技術者・航空隊パイロットは海軍出身の日本人が多かった。このように、海辺警察隊は沿岸警備隊というよりは海軍としての性格が強かった。
こうした状況の原因は、黄海以上に黒竜江等の旧ソ連方面の河川が生命線と考えられていたこと、指導・支援の立場にあった関東軍と日本海軍の利害関係の対立があったこと等といわれる。
[編集] 軍備拡大期(1935年頃)
満州国はその最初の5年間(日中戦争開始まで)で「とにかく国としての体制を作ろう」とがむしゃらに進んでいた感があり、満州国軍についても随時増強が進められている。
[編集] 海軍兵力の補充
- 1934年9月に日本製の砲艦「順天」「養民」を配備している。
- 排水量:270トン
- 全長 :55m
- 固定武装:
- 12cm連射高角砲:1基
- 15cm曲射砲 :1門
- 13mm連装機銃 :3基
- 1935年9月に砲艦「定辺」「親仁」を配備している。
- 排水量:290トン
[編集] 陸軍の組織改正
当初の軍編成がそれまでの軍閥のテリトリーそのままであったこともあり、1935年4月に満州国の行政区画にそって陸軍の再編成を実施した。
- 第1軍管区
- 第2軍管区
- 第3軍管区
- 第4軍管区
- 第5軍管区
- 興安東警備軍
- 興安西警備軍
- 興安南警備軍
- 興安北警備軍
- 江防艦隊
[編集] 飛行隊の創設
1937年に飛行隊を創設している。
[編集] 日支戦争開始後(1937年以降)
日支戦争が全面戦争になった後、陸軍は関東軍将兵を続々と(支那方面軍へ異動させ)中国の戦場(この場合は山海関以南の戦場)に投入した。このため、従来のように「関東軍を主軸とした国防」構想自体に無理が生じ、満州国軍は「自力での国防」に方針を転換せざるを得なくなっていった。
[編集] 国防法制定(1938年)
一般的にいう「徴兵制」の施行である。
国内の20歳から23歳の男子を3年間軍務につかせて軍事訓練を施し、補充工兵、堡塁の構築、あるいは地方警察の補助等を行わせた。毎年春に20万人を招集し、軍務不適応とみなされた者は土木工事等3年間の勤労奉仕をさせた。
[編集] 軍官学校
1939年(昭和14年)に新京市(現在の長春市)に陸軍軍官学校が設立され、将校養成を担った。満系生徒のほか、日系生徒(内地人・朝鮮人)も入学し、日満両国民が共に机を並べて練磨した。なお、第1期入学生徒中で日系生徒は172名にも上る。
また、地理的な近さから軍官学校生徒には朝鮮人の学生も少なくなかった。彼らの多くは第2次世界大戦後に創設された韓国軍に入隊し、日本陸軍出身者と共に韓国軍の基幹となる。また大統領となった朴正煕や国会議長・国務総理などを歴任した丁一権など、政治家として活躍した人物もいる。 一方で、日本の傀儡国であった満州国の軍人が韓国軍の基幹を構成し、政治的にも影響力を行使した事を問題視する声も以前より存在している。2005年8月29日、反民族特別法によって民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典名簿3090人のなかに満州国軍将校の勤務歴のある朝鮮人が親日派としてリストアップされた。
- 白善燁(朝鮮人):1941年(昭和16年)軍官学校卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国陸軍参謀総長大将となる。
- 朴正煕(朝鮮人):1940年(昭和15年)4月に軍官学校に入学、1942年(昭和17年)に新京軍官学校首席卒業、1942年(昭和17年)10月に日本の陸軍士官学校(57期)に派遣留学され、1944年(昭和19年)4月に卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国大統領となる。