源頼光
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源頼光(みなもと の よりみつ、天暦2年(948年) - 治安元年7月19日(1021年8月29日))は、平安時代中期の武将。俗に「みなもと の らいこう」とも。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。幼名、文殊丸。妻は伊予守藤原元平娘、中納言平惟仲娘などか。子は頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、嫡子は頼国。娘婿に藤原道綱。
満仲の嫡子で、清和源氏の三代目(摂津源氏初代)。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続。その子孫は「摂津源氏」と呼ばれ、清和源氏の嫡流。異母弟に大和源氏(奈良県宇野)の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏(大阪府羽曳野市)の源頼信がいる。
[編集] 略歴
生誕地は不明だが、本拠地の多田であるか、父の満仲は天延元年(973年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。若年の経歴は不明。同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられている。
986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。992年には備前守に任官しているが、都に留まっており遙任であったと思われる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。『日本記略』によれば、永延2年(988年)9月には、関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を送っている。
990年、関白兼家の葬儀に際して、藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられる。長保3年(1001年)には美濃守を兼任、このときは遙任であったことを示す記録も無く、任国へ赴いていたと思われる。同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、親交があったと思われる。また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残している。
但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。没年は68、あるいは74。
[編集] 人物
父の満仲は摂津国多田に源氏武士団を形成し、頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが、頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にある。
一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。説話では、母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王や、藤原保昌などの強者の家臣がいたと言われ、頼光が実際に郎党を従えていたことを反映しているとも考えられている。また、古典『平家物語』では、精兵の一人として頼光の名が挙げられているなど、頼光に武勇的人物を求める傾向もある。