源頼信
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源頼信(みなもと の よりのぶ、安和元年(968年) - 永承3年4月17日(1048年6月1日))は、平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲(多田満仲、多田新発意)の三男。摂津源氏の源頼光や大和源氏の源頼親の弟。母は正室、大納言藤原元方女もしくは藤原致忠女。子は頼義、頼清、頼季、頼任らがあり、嫡男は頼義。官位は従四位上河内守。贈従二位。
河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とする河内源氏の祖。
兄・頼光と同じく摂政関白・藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。
甲斐守在任時に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと藤原道長の四天王、或いは四天王と称された。
それまで四年間、平直方と争っていた忠常があっさり降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係になっていたためと思われる。
この乱の後、坂東の武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築く。そして、その威光は子の頼義、孫の義家へと継がれていく。
墓は、大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺の通法寺跡に、頼義、義家と共にある。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 987年(寛和3年)2月19日、左兵衛少尉に任官。
- 999年(長保元年)9月2日、上野介に任官。
- 1001年(長保3年)2月26日、上野介を退任か?
- 1012年(長和元年)、時に前常陸介(御堂関白記閏10月23日条)
- 1023年(治安3年)8月、鎮守府将軍に任官。
- 1028年(長元元年)、時に前伊勢守(左経記6月21日条)
- 1029年(長元2年)、甲斐守に任官。
- 1031年(長元4年)1月6日、従四位下に昇叙し、甲斐守如元。
- 1032年(長元5年)2月8日、美濃守に遷任。
- 1036年(長元9年)10月14日、相模守に遷任。
- 1047年(永承2年)、従四位上に昇叙し、河内守に任官。