滝川雄利
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滝川 雄利(たきがわ かつとし、1543年(天文12年) - 1610年3月21日(慶長15年2月26日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊勢北畠家の氏族木造家の一族と言われる。
[編集] 経歴
はじめは僧侶として木造家に仕えていたが、織田信長の北畠家攻略戦の時に滝川一益にその才能を見出されて還俗し、一益の娘婿として迎えられ、北畠家の武将を調略し、織田軍の勝利に貢献。織田信長の命により北畠家へ養子にいった織田信雄の付家老になり、信雄の片腕として働く。
天正4年(1576年)の北畠具教暗殺、天正9年(1581年)の天正伊賀の乱に関わった。北畠具教暗殺は具教が剣の使い手であったので小姓を買収し、刀を鞘から抜けないようにして殺害。
天正伊賀の乱の際には伊賀の豪族を調略し結束力を弱め、伊賀上野城を築城し、織田軍の大勝利に貢献する。このため、現在の三重県には雄利を大悪人として嫌う人が多い。
小牧長久手の戦いの時は秀吉に降伏していた、義父一益を通じて豊臣秀吉に接近し、信雄に単独講和を勧め、講和させる。一益は弥富城の不手際により、出家させられ、雄利が滝川家の家督を継ぐ事となる。戦後、雄利は羽柴姓を賜り、伊勢国神戸城神戸2万石を領した。
その後秀吉に軍師格で仕え、九州征伐や小田原征伐に参加した。信雄改易後もそのまま領国を維持された。秀吉の天下統一後は御伽衆の一人となる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後に改易されたが、後に徳川家康に召し出されて常陸国片野藩2万石の所領を与えられ、家康の御伽衆の一人となった。
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