玉井義臣
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玉井 義臣(たまい よしおみ、男性、1935年2月6日 – )は、日本の交通評論家、社会運動家。現在あしなが育英会会長を務める。
[編集] 来歴・人物
大阪府生まれ。1958年滋賀大学経済学部を卒業後、証券会社勤務を経てフリーランスの株式ジャーナリストとして糊口をしのぐ生活を送っていたが、1964年、母親を交通事故で亡くしたことを契機に、「交通評論家」として評論活動を開始、自賠責保険の支払限度額引き上げなどの問題提起を行う。1966年からは「桂小金治アフタヌーンショー」(NET)で週1回行われた「交通事故防止キャンペーン」コーナーにレギュラー出演して各界関係者と議論を戦わせ、刑法211条改正実現等に尽力した。
1968年10月、姉と甥をやはり交通事故で亡くした岡嶋信治らとともに、数寄屋橋で「交通遺児をはげます会」の旗揚げ街頭募金を行う。その後交通遺児・遺族による文集『天国にいるおとうさま』が大反響を呼び、翌1969年交通遺児育英会が設立される。玉井は専務理事に就任、また会長には、かつて「アフタヌーンショー」で玉井と激しい議論を交わした永野重雄(富士製鉄社長)が就任した。
玉井には有能な人材を発掘・リクルートする特異な才能があり、育英会の若手活動家の中には後に国会議員となる山本孝史・藤村修らがいた。1978年には東京都日野市に遺児のための学生寮・心塾を開設する。エリート偏愛の傾向が多分に見受けられたものの、遺児たちの人格成長期における精神的支援に真摯に取り組んでいた。
1989年朝日社会福祉賞を受賞。この頃から、玉井の災害遺児救済運動への関与について、交通遺児育英会内部から「背信行為」などと攻撃する動きが現われた。1994年に反玉井派の中心人物と目されていた宮崎清文(元総理府総務副長官)が理事長に就任すると、玉井は専務理事を追われるように退任し、副会長を務めていた「あしなが育英会」に活動の比重を移す。1998年には会長に就任、現在に至る。
[編集] 関連文献
- 副田義也著『あしなが運動と玉井義臣』岩波書店、2003年 ISBN 4000220136