田口壮
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[[Image:||田口 壮]] |
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守備位置 | 左翼手 |
所属球団 | セントルイス・カージナルス |
背番号 | 99 |
日本でのキャリア | 1992年-2001年 |
アメリカでのキャリア | 2002年- |
誕生日 | 1969年7月2日 |
身長 | 178 cm |
体重 | 75 kg |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
出身校 | 関西学院大学 |
年俸 | $925,000(2007年) |
出身地 | 兵庫県西宮市 |
前所属球団 | オリックス・ブルーウェーブ |
MLBデビュー年 | 2002年6月10日 |
ニックネーム | ソウ |
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田口 壮(たぐち そう、1969年7月2日 - )はセントルイス・カージナルス所属のプロ野球選手である。ポジションは内野手、外野手。兵庫県西宮市出身。妻は、元TBSアナウンサーの香川恵美子。代理人はアラン・ニーロ。
目次 |
[編集] 来歴・人物
西宮市立平木中学校・兵庫県立西宮北高等学校・関西学院大学を経て1991年ドラフト1位指名を受けてオリックス・ブルーウェーブに入団(日本ハムファイターズも1位指名したがオリックスが交渉権獲得、日本ハムは上田佳範を獲得)。大型内野手(遊撃手)としての入団であった。[1]
プロデビュー戦は1992年の開幕戦の千葉ロッテマリーンズ戦で、新人で開幕戦からショートでスタメンであったが、1回裏の守備機会からゴロを裁いたが一塁手への悪送球になってしまう(記録は一塁手がジャンプで好捕したのでアウト)。
田口のデビュー当時の土井正三監督の厳しい指導からスローイングノイローゼ(イップス)、ストレスから難聴に陥り、守備ではエラーを続けた。しかし、「強肩病」とイチローが絶賛していた強肩を生かして1994年に外野手に転向。補殺王、ゴールデングラブ賞等の常連になるほど、好守の外野手として、レギュラーに定着する。イチロー、そして本西厚博との外野手トリオは、当時球界一の守備力と言われたほど。
シュアなバッティングとイチローと組んだ堅実な外野守備でオリックスの1995年・1996年シーズンの連覇に貢献。2000年には松坂大輔・中村紀洋らとともに、シドニーオリンピック野球日本代表として出場。[2]
2001年オフにFA宣言、カージナルスに移籍。MLB移籍後はメジャー昇格とマイナー降格を繰り返していたが、3年目の2004年シーズンに開幕メンバーに残り、109試合に出場、チーム新人王となる。その年カージナルスはワールドシリーズに進出を果たし、自身も第1戦で先発出場して安打を放ったが、ボストン・レッドソックスに4連敗を喫し、チャンピオンリングを獲得することはできなかった。
2003年9月12日のヒューストン・アストロズ戦で、セカンド守備につき、日本人初の内野守備を経験[3]。
野球以外の活動としては、自身のwebサイトで公開中の日記を編集した「何苦楚(なにくそ)日記」(主婦の友社、2004年)を執筆。webサイトの日記は文章構成がプロ並の出来と評判が高い。 ちなみに、カージナルスの傘下チームで活動していたころは「日記しか書けないマイナーリーガー」と言われていたが、近年では「日記も書けるメジャーリーガー」と呼ばれるようになった。
アメリカに移って1年半が過ぎた2003年の秋にイエス・キリストを信じ、クリスチャンになった。「自分の心に響きました。理解でき、実感することができました。これが本物だってわかったんです・・・妻との関係や、人生が困難に陥った時に助けてくれるのはイエス・キリストだと、今では思ってます」と語った。 カージナルスにはジョン・ロドリゲス、ブレイデン・ルーパー、アルバート・プホルスなど信仰心の厚さで知られる選手もいる。田口は、「プホルスはとても優しくしてくれますね。彼は、言語を理解できないつらさをわかってくれるし、信仰の手本となるクリスチャンでもある。みんなとても親切にしてくれますね」と語った。
2006年10月27日のワールドシリーズ対デトロイト・タイガース戦で8番左翼で先発出場し、7回から右翼に移り、勝利を収めた。右翼の守備についていた田口は、世界一が決まった瞬間フィールドに立っていた初の日本人となった。
トニー・ラルーサ好みの野球プレーをし、また監督だけではなく、ファンからも愛されている。
すぽると!出演に際し、メジャーに挑戦する桑田真澄投手のことを聞かれ、1996年の日本シリーズで対戦したときの印象が強いと語った。しかし、桑田はその前年の95年に右肘靭帯断裂という大怪我をし、96年は1試合も登板していない。そのすぽると!内で今年イチローと合同練習した際、自称"クセ球"でイチローのバットを真っ二つにしてしまったことが報道され、イチローは「シーズン中でもこんな折れ方はしない」と話している。
2007年シーズンに際して、年俸調停を申請していたが、1月16日に回避。92万5000ドルで1年契約に合意している。
[編集] 略歴
- 出身地 兵庫県西宮市
- 球歴・入団経緯 西宮北高-関学大-オリックス・ブルーウェーブ(1992~2001)-セントルイス・カージナルス(2002~)
- プロ入り年度・ドラフト順位 1991年(1位)
- 血液型 B型
- 小学生(4年生)の時には、父親の仕事の関係で岡山県にいて、地元のソフトボールチームに在籍し、岡山市の強豪地区で代表チームにとなり本大会では優勝した。また、翌年父親の転勤で関西へ行く事になっていたが、夏の市の本大会に出たいが為に残り、見事連続出場する。しかし連覇をすることはできなかった。
[編集] タイトル・表彰・記録
- ベストナイン 1回(1996年)
- ゴールデングラブ賞 5回(1995年~1997年、2000年、2001年)
- 月間MVP 1回(1998年9月)
- オールスター出場 4回(1995年~1997年、2001年)
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | オリックス | 47 | 123 | 12 | 33 | 10 | 0 | 1 | 46 | 7 | 5 | 9 | 26 | .268 |
1993 | オリックス | 31 | 83 | 12 | 23 | 7 | 1 | 0 | 32 | 5 | 3 | 3 | 12 | .277 |
1994 | オリックス | 108 | 329 | 55 | 101 | 17 | 1 | 6 | 138 | 43 | 10 | 26 | 62 | .307 |
1995 | オリックス | 130 | 495 | 76 | 122 | 24 | 2 | 9 | 177 | 61 | 14 | 47 | 80 | .246 |
1996 | オリックス | 128 | 509 | 74 | 142 | 24 | 1 | 7 | 189 | 44 | 10 | 33 | 61 | .279 |
1997 | オリックス | 135 | 572 | 92 | 168 | 32 | 4 | 10 | 238 | 56 | 7 | 52 | 74 | .294 |
1998 | オリックス | 132 | 497 | 85 | 135 | 26 | 2 | 9 | 192 | 41 | 8 | 51 | 68 | .272 |
1999 | オリックス | 133 | 524 | 77 | 141 | 21 | 1 | 9 | 191 | 56 | 11 | 30 | 91 | .269 |
2000 | オリックス | 129 | 509 | 77 | 142 | 26 | 3 | 8 | 198 | 49 | 9 | 58 | 80 | .279 |
2001 | オリックス | 134 | 453 | 70 | 127 | 21 | 6 | 8 | 184 | 42 | 6 | 44 | 88 | .280 |
計 10年 | NPB | 1,107 | 4,094 | 630 | 1,134 | 208 | 21 | 67 | 1,585 | 404 | 83 | 353 | 642 | .277 |
2002 | STL | 19 | 15 | 4 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 2 | 1 | 2 | 1 | .400 |
2003 | STL | 43 | 54 | 9 | 14 | 3 | 1 | 3 | 28 | 13 | 0 | 4 | 11 | .259 |
2004 | STL | 109 | 179 | 26 | 52 | 10 | 2 | 3 | 75 | 25 | 6 | 14 | 23 | .291 |
2005 | STL | 143 | 396 | 45 | 114 | 21 | 2 | 8 | 163 | 53 | 11 | 22 | 62 | .288 |
2006 | STL | 134 | 316 | 46 | 84 | 19 | 1 | 2 | 111 | 31 | 11 | 34 | 48 | .266 |
計 5年 | MLB | 448 | 960 | 130 | 270 | 53 | 6 | 16 | 383 | 124 | 29 | 76 | 145 | .281 |