神保長職
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神保 長職(じんぼう ながもと、?年 - 元亀3年(1572年?))は越中守護代神保氏の当主。神保慶宗の子とされる。幼名小法師?。宗(惣)右衛門尉。号宗昌。
永正17年(1520年)、長尾為景に敗れて自刃した神保慶宗の子といわれるが確証はない。但し神保氏嫡流の通称「宗右衛門尉」を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことからそれが後の長職である可能性は高い。
長職は没落していた神保家の再興に努め、享禄4年(1531年)加賀国における享禄の錯乱に守護方連合軍の一員として出兵するまでに勢力を回復させた。もっともこの時神保勢は一揆勢に大敗を喫している。天文12年(1543年)には神通川を越えて新川郡に進出、富山城を築き、椎名長常と国人衆を巻き込み越中を二分した越中大乱と呼ばれる大戦を引き起こした。翌年能登畠山氏の仲裁により和睦したが、常願寺川以西を併呑し神保家を越中最大の勢力に築き上げた。
永禄2年(1559年)再び椎名氏への圧迫をはじめ、長尾景虎(以後上杉謙信とする)により仲裁を受けるが、その後も椎名氏への攻撃を止めなかったため、翌年1560年、謙信の越中出兵を招いて敗北した。しかしその後も甲斐の武田信玄と通謀して上杉・椎名氏と敵対したため、永禄5年1562年の7月と9月の二度に渡って謙信の再侵攻を受け、能登畠山氏の仲介で降伏した。
長職は神通川以東を失ったが、本領の射水・婦負二郡の支配権は従前通り認められた。能登畠山氏との友好関係によって上杉氏を牽制したためだが、永禄9年(1566年)に能登畠山氏に内紛が起こり、義綱父子が重臣により追放されると、長職の権力基盤は動揺し、さらに永禄11年(1568年)、椎名康胤が上杉氏を離反して武田・一向一揆方に立つと、神保家中は嫡子・神保長住を仰ぐ反上杉派が台頭した。長職はこの動きを弾圧し、それまで親密だった一向一揆への攻撃を開始し、これに反発した長住派と内戦状態となった。上杉家の介入によって長住派は壊滅したが、神保家の上杉氏への従属を深める結果となった。長住は出奔して京で織田信長に仕えた。
しかし一方で長職は中央の動きも注視しており、上洛前の織田信長とも誼を通じていた。永禄13年(元亀元年)(1570年)1月、足利義昭を擁し上洛を果たした織田信長が全国の有力諸大名に上洛命令を発すると、長職はこれに名代を派遣している。しかしこの頃神保氏は内紛の結果疲弊し、家中の実権は家臣の小島職鎮に牛耳られ、上杉氏への従属を深めていた。長職は剃髪して宗昌と号し、家督を次男神保長城に譲っていたが、元亀2年末頃、再び立場を一変させ、一向一揆と和睦。反上杉の立場をとり神保家は再び分裂した。長職はその後史料に見えず、程なく没したものと思われる。長職の反上杉路線は長城に継承されたが、天正4年(1576年)、上杉勢により増山城を攻略され長職の再興した神保氏は滅亡した。