富山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
模擬天守と桜 | |
通称 |
安住城、浮城 |
城郭構造 |
梯郭式平城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀、模擬天守 |
位置 |
富山城(とやまじょう)は旧越中国、現・富山県富山市丸の内にある城。別名「安住城」とも呼ばれる。現在の天守は第二次世界大戦後に建築されたもの。
[編集] 沿革
天文12年(1543年)に新川郡への進出を目論む越中守護代の神保長職が、家臣の水越勝重に命じて築城したとされるが、近年の発掘成果により室町時代からの遺構が発見され、実際の築城時期はさらに遡ると思われる。
富山の地は越中国のほぼ中央に位置し、飛騨と北陸道を結ぶ交通の要衝にあたり、松倉城主椎名氏、越後上杉氏、一向一揆等の勢力の争奪の的となり、抗争が繰り返された。慶長5年(1600年)以前に成立の『富山之記』には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子が詳しく記されている。
天正10年(1582年)織田信長の家臣佐々成政が富山城主となり、大規模な改修を加えた。その際に3つの鯱を持つ五層の天守が建てられた。また、神通川の流れを城の防御に利用し、水に浮いたように見えるために「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山附近で東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は作られた。神通川改修後の旧河道は松川と呼ばれ、今も富山城址の北側を流れる。
本能寺の変の後、豊臣秀吉と袂を別けた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に富山城を攻囲されて降伏し(富山の役)、富山城は破却された。やがて越中一国が前田家に与えられ、前田利長が隠居城として住んだが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移った。
寛永16年(1639年)、加賀藩三代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。利次は、万治4年(1661年)頃から廃城となっていた富山城を修復し、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。 修復後の富山城には天守は無かったが本丸に三基の二層櫓が建てられ、主要な城門は渡櫓形式の重厚な構えであった。
江戸時代の古図には天守の記載はないが、昭和29年(1954年)に戦後最初の模擬天守を建築した。天守の内部は郷土資料館になっている。なお、この模擬天守は平成16年(2004年)に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
滝廉太郎の荒城の月の題材になった城のうちの一つと言われている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本の城 | 富山県の歴史 | 富山県の建築物・観光名所