神港学園神港高等学校
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神港学園神港高等学校(しんこうがくえんしんこう こうとうがっこう)は、兵庫県神戸市中央区に所在する私立の高等学校である。
大正14年 神港中学として神戸元町に開校。当時、旧神戸区には旧制中学校がなかったので、今で言う「コミュニティ立」で、当時の旦那衆が自分たちのドラ息子を旧制中学に進学させるために金を出し合って設立した学校である。開校時正式な旧制「中学校」ではなかったので(”校”がない)当初は配属将校も来なかった。開校時旧三越の裏の辺りに校舎が有ったが、そもそも金欠の上、火事に遭ったりして付近を転々とする。その後、神戸女学院が移転した跡地の校舎や講堂ごと買い取って現在の所に移転して今日に至る。今でも敷地内には神戸女学院の校舎の跡地である旨、記載された石碑があるが、現存する全ての建物は神港が立て替えたものであり、石碑以外に神戸女学院の面影は今はない。 無論、神戸女学院とは、それ以上の何ら関わりはない。旧制中時代は良家の子息が通う進学校で、当時の甲陽中・甲南中に並ぶ神戸ではステータスの学校であった。尚、当時は旧制中学に進学する者自体が少なく現在の大学進学率以下であり、金持ちのドラ息子が他に行く公立中学校もなく進学する学校であった。神戸の街を見下ろす高台に校舎が有り、抜群の教育環境である。但し、過去には校門のすぐ眼の前にラブホテルが有ったこともある。部活動がさかんであり、特に軟式野球部と硬式野球部の名声は、近畿はもとより全国に轟いたのが大きな特徴であろう。同市内に、神戸市立神港高等学校があるが、こちらは公立の学校で、沿革も含めて神港学園とは全く異なる。市立の通称「イチ神」と区別する意味で、関係者でも「ボケ神」と呼称し、揶揄しているのが実情である。又、現中央区が発足するまでは、「(旧)生田区の男子校」=他にない!と、いう隠語によりローカル紙等でマナー問題など取り上げられたことが幾度かある。
神港学園神港高等学校 | |
創立 | 1925年(大正14年) |
設置学科 | 普通科総合 普通科特進 |
所在地 | 〒650-0003 |
兵庫県神戸市中央区山本通4丁目19番20号 | |
電話番号 | 078-241-3135 078-232-1570(FAX) |
外部リンク | 公式サイト |
目次 |
[編集] 沿革
- 1925年3月 財団法人神戸区教員会に各種学校令による私立神港中学の設立許可
- 1925年4月 神戸区元町4丁目仮校舎で授業開始
- 1927年1月 財団法人神港中学として組織
- 1927年4月 開校式挙行、神戸区北長狭通4丁目市立第三神港商業学校校舎の一部を分教室とし借受
- 1928年4月 中学校令による中学校としての文部省の許可を受け、神港中学校と改称
- 1928年5月 中学校令による中学校として神港中学校を開校
- 1933年12月 旧神戸女学院高等女学校跡の校舎に移転
- 1938年7月 旧神戸女学院講堂並びに付近の敷地を買収
- 1948年7月 学制改革により神港高等学校、神港中学校に改編
- 1950年12月 学校法人神港学園と改組
- 1955年4月 中学校生徒募集停止
- 1984年5月 「神港学園神港高等学校」と校名変更
それまでは、「兵庫県私神港高等学校」と呼称していたが、史上初の選抜甲子園出場の際、マスコミ関係者から 過去に幾度か甲子園出場校である「神戸市立神港高等学校」と区別が困難との外圧により改称。
- 2001年4月 特進コースを設置
- 2004年4月 特進コース男女共学
[編集] 校風
旧制中学時代からの伝統を引き継いで、何事に対してもやる気のない、マタ~リとした「神港ムード」が特徴。大池のグラウンドを整備する際や西校舎建設のため、無理に定員増を行った結果、生徒のレベル低下をきたし、現在でも最底辺校の一つに留まっている。但し、同等レベルの他校に比べ立地条件が素晴らしく、下校時に寄り道して元町や三宮といった繁華街に簡単に遊びに行けることから、遊びたい志願者にはそれなりの人気がある。
底辺校であることと元々男子校であることから、イジメやカツ挙げ(恐喝)が頻発していたのが実情である。古の頃には登校時にドス(短刀)を腰に差していた生徒や、イジメにより精神に異常をきたし授業中に教室から飛び降り自殺を試みた生徒が居たことは関係者の間では周知の事実である。(飛び降り自殺自体は玄関前の木がクッションになり重傷→自主退学で済んでいる。)同じ頃、唯一の若い?女性教員に対する授業中の生徒によるセクハラも頻発していたことも記憶に残る。 昔はこのようなヤンキー学校のイメージもあったが、近年教育改革が行われ、公立高校の廃校による公立高校定員減という追い風もあって偏差値も上昇傾向にあり、当時の面影は無くなりつつある。
これは本校に長年に渡って伝わる一つの都市伝説であるが、一部の嫌われ者の教師が卒業式には絶対に参加しないと言われている。卒業式終了後、卒業生による教員への集団リンチ(というか、3年間分のレベンジ)を恐れて欠席すると信じられている。無論、実際にはそんなことはなく、嫌われ者の教員も普通に参加している。
[編集] 特色
教員自身が「この高校でまともに勤まればどこの学校でもやっていける」と、授業中に生徒に誇らしげに公言するくらいのレベルの高校である。無論、それに付いていけない若い教員が年度途中に学級担任職を放棄し、公立高校の非常勤講師に転職した事例もある。(当時はヤクザのような教師も多かった。)
一方、生徒も喫煙、飲酒、パチンコ、シンナー、単車、不純異性交遊等々で停学、丸刈り、更には退学になる者も多く、正に卒業までのサバイバル・ゲーム状態であったと言える。(旧食堂には灰皿代わりの空缶が目立たぬように置かれていたことは周知の事実である。) このように昭和50年代当時、著しく風紀が乱れた時期があった。またこの頃、全国各地の学校で校内暴力の増加が社会問題としてクローズアップされていて、本校もその例に漏れなかった。又、昭和40年代の大学紛争時には本校にも飛び火して、高邁な思想的問題ではなく、単なるブームになんとなく乗っかるという感じでの校舎内バリケード築城等、学園紛争の嵐に巻き込まれたことは当時を知るものにとっては記憶に止めておくべきである。 しかし現在の本校生徒は、社会全体が所謂「神港ムード」の無気力な風潮もあり当時の生徒に比べるとかなり落ち着いたといえよう。
[編集] 部活動等
少子化に備え運動部、とりわけ硬式野球部の活動で知名度を高めようと必死ではあるが、野球留学に対するフォローがない等、ポリシーが見えない。
- 運動部
- 陸上部、硬式野球部、軟式野球部、サッカー部、テニス部、バスケットボール部、バレーボール部、ハンドボール部、空手道部、柔道部、剣道部、水泳部、卓球部、ゴルフ部
- 文化部
- ブラスバンド部、美術部、写真部、図書部、ESS、書道部、考古部、放送部、生物部、映画研究部、鉄道研究部
- 同好会
- 登山同好会、パソコン同好会
[編集] 進路状況
多くの卒業生は所謂「Fクラス」の大学や短大、専門学校に進学するのが実情。同校の公式HPにはそれなりの大学の名前が挙げられているが、「関関同立」クラス以上の大学に現役で合格する者は皆無に近く、数年浪人してからでも合格すると神として崇められていたが 、(スポーツ枠での進学は別。)近年、特進クラスも新設され、更に男女共学となり、本格的に進学面で力を入れるようになり旧二期校レベルの国公立大や関関同立にも若干名の合格者を出している。これは、大学側においても18歳人口の減少に伴う「大学全入時代」到来による全体的な大学入試レベル低下の追い風を受けた部分が多分にある。
しかし総合クラスに至っては、そもそも底辺校であることと、伝統的な陰の校風である「神港ムード」により誰しも必死で勉強する意欲が湧かないため、進路状況はパットしない。要因の一つとして下校時の繁華街での誘惑の多さに依るものと推察される。
そういう理由もあってか、公式HPにおける卒業生の進学先については大学名だけで、いつ、何人、現役か浪人か?と、いった詳細な合格者情報は外部には公表されていないのが実情である。明らかに他校に比べて情報公開の面で遅れを取っていることは否めない。
[編集] 主な出身者
- スポーツ選手
- 大学教員
- 平瀬巳之吉(元専修大学大学院教授)昭和5年卒
- 豊原治郎(元神戸商科大学長 経済学博士)昭和19年卒
- 加藤均(堺市会議員 羽衣国際大学客員教授 政治学博士)昭和23年卒
- 山本義泰(天理大学教授 東京五輪柔道銅メダリスト)昭和35年卒
- 北城健次(旧名: 鮑宗賢)(元英知大学 スペイン語スペイン文学科教授)昭和40年卒
- プロレーサー
- 片山敬済(1977年、日本人初のロードレース世界選手権 (WGP) チャンピオン獲得)
今では同氏も公式HPに名前が記載されているが、誇るべきチャンピオン獲得時には校内での公式な発表は一切なかった。当時も今もオートバイ禁止の影響と思われる。代わりに同じ年に同校史上初(旧制中時代を除く)の東大合格者が2名輩出したことを誇らしげに内外に公表していた。無論、現役ではなく鬼の如き執念で複数年浪人をしたOBである。
- 画家
- 貝原六一 (元行動美術協会会員、創造美術協会会員、日本美術家連盟関西支部委員)
- 作家
- 村雨貞郎 (1997年、「マリコの肖像」松本清張賞受賞) 昭和43年卒