福島安正
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福島 安正(ふくしま やすまさ、1852年10月27日(嘉永5年9月15日) - 1919年(大正8年)2月19日)は、大日本帝国陸軍の軍人である。情報将校。父は松本藩士。
信濃国(長野県)に生まれる。江戸へ上京し、幕府の講武所で洋式兵学を学び、明治には開成学校へ進み外国語などを学ぶ。1874年(明治7)明治政府に仕官し、司法省から文官として陸軍省へ移る。1877年の西南戦争では福岡で征討総督府の書記官を務める。翌年には陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉となる。
中国、朝鮮などで視察を行い実地調査を報告し、天津条約の交渉にも陪席する。陸軍大学校ではドイツから来日したクレメンス・メッケルから学ぶ。明治19年にはインド、ビルマ方面への視察を行い、翌20年にはドイツのベルリン公使館に駐在、公使の西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設の情報などを報告する。1892年(明治25)には冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまで実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長の川上操六らに報告する。
日清戦争では第一軍の参謀、義和団事件では義和団鎮圧の為に派遣された日本軍の指揮官を務め、1904年からの日露戦争では満州軍総司令部参謀に任官、それまでの経験を活かして諜報部において手腕を振るう。特に、満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」、「満州義軍」の総指揮を行ったが、一般にはあまり知られていない。戦後に参謀次長、また、関東都督。大正時代には予備役となり、職を引退した後は国内旅行などをして過ごす。67歳で死去。
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