シベリア鉄道
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シベリア鉄道(シベリアてつどう、露:Транссибирская магистраль)はロシア国内を東西に横断する鉄道。世界一長い鉄道(全長:9297km)としても有名である。これとは別に、第二シベリア鉄道もある。
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[編集] 概要
正確にはロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州のチェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ~ウラジオストク間9297kmを指す事が多い。「ロシア号」はモスクワのヤロスラブリ駅を出発し、ウラジオストクまで約7日間をかけて走破する。
欧米では、モスクワ~ウラジオストクを結ぶ本線(広義のシベリア鉄道)を"Trans-Siberian Railway"と呼ぶほか、モンゴル国のウランバートル経由で北京まで結ぶ路線を"Trans-Mongolian Railway"、中国東北部経由で北京まで結ぶ路線を"Trans-Manchurian Railway"と呼ぶのが通例である(以上3つが更に広義のシベリア鉄道である)。
航空機が登場する前は、日本とヨーロッパを結ぶ欧亜連絡運輸において最速の交通路でもあった。その後、第二シベリア鉄道と呼ばれるバム鉄道も建設された。
[編集] 歴史
[編集] 計画まで
シベリアに鉄道を建設する案はモスクワ~サンクトペテルブルク間の鉄道が完成した後にすでに生まれている。その最初のものの一つはイルクーツクとチタを結ぶ計画で、さらに鉄道をアムール川まで伸ばし、終点を太平洋沿岸に設けるというものだった。極東征服に熱心だったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーの指揮により、ハバロフスク周辺での鉄道敷設調査も行われた。
1880年以前、モスクワの中央政府はこれらの鉄道計画を無視していた。沿線であるシベリアの産業は弱く、収支のリスクもあり、官僚の理解も得られなかった。大蔵大臣イゴール・カンクリンは次のように書いている。「ロシア全土を鉄道網で覆うという考えはあらゆる実現可能性を超えているだけではない。ペテルスブルグからカザンへの鉄道建設だけで数世紀かかるに違いない。」
上記のイルクーツク・チタ鉄道計画はもともとアメリカ人企業家 W.コリンズの発案によるものであったが、政府はこれを拒否し、この計画に軽率にも理解を示したムラヴィヨフ=アムールスキーに対し警告を与えた。政府はシベリアにアメリカ合衆国およびイギリスの影響圏が鉄道を通じて及ぶことを防ごうとするようになった。
1880年までの間に、シベリアと太平洋を結ぼうという鉄道計画が多数提案された。すべてが政府により却下されたが、なお許可申請を行おうという者も絶えなかった。またこれだけの計画がありながら、シベリアとロシア中央部を結ぶという計画はなかった。危惧した政府は、シベリアとモスクワを結ぶ計画に切迫した関心を示すようになった。
1880年、ロシア帝国のアレクサンドル3世は東アジアへの進出を目的としてシベリア横断鉄道計画の検討を始めた。路線選定は10年間をかけて行われた。結果、現在見るようなルートが定まったが、これ以外にも路線案はあった。
- 南案: カザフスタン北部を通り、バルナウル、アバカンなど南シベリアを経由しモンゴルを抜ける
- 北案: チュメニ、トボリスク、トムスク、エニセイスクなど現在のシベリア鉄道より北側の町を通り、現在のバム鉄道のルートに沿うか、あるいはヤクーツク経由で太平洋に出る案。
鉄道技術者は上から示される経費節減案、例えば大河を渡る際に橋の代わりにフェリーを用意し、交通量が多くなれば橋を作るなどの案に対して抵抗した。技術者たちは途切れる箇所のない鉄路建設案にこだわり、これを守り抜いた。
かつて拒否された数多くの私設鉄道案は、すでにある町をつなぎながら地方内の物流や通行も提供しようというものであったが、政府によるシベリア横断鉄道は違った。地方内交通には優先度を置かず、地主たちとの摩擦や経費増大を招かないようなルート選定を優先し、すでにある町同士の交通に対しては道路建設で代替しようとした。トムスクはシベリア最大の町であったがシベリア鉄道建設では不運なことにルートから外された。トムスク付近のオビ川沿岸地帯は湿地帯であり橋を架けるには不向きであった。ルートはトムスクの南70kmにずらされ、オビ川渡河地点にはノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の町が作られた。トムスクには盲腸線となる支線が本線からつながったにすぎず、シベリア鉄道による交通や交易の機会は奪われてしまった。
横断鉄道は、少ない乗客や麦の輸送など、当面の地方交通を満たす程度の能力で建設された。低い速度と積載可能な重量の少ない列車は、ヨーロッパと東アジアを結ぶという当初の役割を果たせないものだった。これは後に日露戦争の際、軍関係の輸送のために地方の物流が犠牲になる結果を招いている。
[編集] 建設
1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。軌間は1524mm(後に1520mmに改める)の広軌を採用したが、これには1435mmの標準軌を採用した欧州と同じにするとナポレオン・ボナパルトのような侵略者に使われれば脅威になると考えたとか、皇帝の招いたアメリカの技術者が広軌論者であったとか、さまざまな説がある。
建設はアメリカ横断鉄道同様、路線の両端から開始された。東の終点のウラジオストクからはウスリー川に沿ってハバロフスクまでの鉄道、ウスリー鉄道がまず建設された。西では1890年、ウラル川を超える橋が完成し、鉄道がヨーロッパ・ロシアを過ぎてアジアに到達した。オビ川を渡る橋は1898年に完成し、1883年に鉄道建設に先立ってオビ川沿いに建てられたノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の小さな町はシベリアの中心として巨大化してゆく。1898年、最初の鉄道がイルクーツクおよびバイカル湖畔に達した。ウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。
サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士が鉄道建設に従事した。沿線最大の障害物となったのはイルクーツクから60km東にある長さ640km、深さ1600mのバイカル湖であった。バイカル湖の南端を迂回する支線が完成するまでの間、夏はイギリスから購入した砕氷船を使ったフェリーによる連絡、冬は湖上に線路を敷いて列車を走らせた。1901年、バイカル湖の区間を除いてシベリア鉄道は一応完成、日露戦争の最中1904年9月にようやく全線開通した。
なお、1896年にロシア政府は清国政府から、シベリア鉄道の短絡線として満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道の敷設権を得た。1903年には東清鉄道が完成し、当初はこれがシベリア鉄道のルートであったが、その後アムール川北岸(左岸)を迂回してハバロフスクを経由する国内線を1916年に完成させ、現在のルートが完成した。
[編集] ソビエト時代
シベリア鉄道は政治的・経済的・軍事的に重要な路線であり続けた。 1918年にはロシア革命後に本国移送中のチェコ軍団が沿線を占領し、その救出を理由にして日本などのシベリア出兵が起こった。日本は現地の反革命軍(白軍)などと協力して1922年までイルクーツク以東の沿線を占領し、極東共和国成立などの事態が起こった。その後第二次世界大戦が開始されるまでは、アジア~ヨーロッパの連絡輸送の一環としての役割を担った。例えば1935年当時だと、東京~パリ間は航路で約40日を要していたが、この鉄道と朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道を使う(下関・釜山・哈爾浜・満州里・チタ経由)と15日で到達する事ができ、当時の最速ルートであった。
一方、ソビエト連邦にとってもこの鉄道は重要で、特に1930年代以降はスターリンの独裁により追放された多くの国民がこの沿線で強制労働に従事し、シベリア開発のために酷使された。また、第二次世界大戦末期の1945年には、5月の独ソ戦勝利から8月の対日宣戦布告までの短期間に大量のソ連軍を輸送する事に成功し、ここで得られた日本軍の捕虜も強制労働に投入された。(シベリア抑留)
第二次世界大戦後も路線の重要性は変わらなかったが、ソビエトは太平洋艦隊の軍港であるウラジオストクへの外国人立ち入りを禁止したため、1956年に国交が回復した日本との貿易や、シベリアを横断する外国人の往来には、ウラジオストクの東側にある商港ナホトカが利用され、シベリア鉄道からは支線を利用する事になった。外国人乗客はロシア号の乗車がモスクワ-ハバロフスク間に限定され、ハバロフスク-ナホトカ間は連絡列車を利用した。
航空路の発達により旅客ルートとしてのシベリア鉄道の重要性は低下したが、貨物取扱量は冷戦時代でも年々増加した。また、1984年にはシベリア鉄道の北側にバム鉄道が全通し、シベリア開発の両輪となった。
[編集] ペレストロイカ後
1985年にゴルバチョフがソビエトの最高指導者となり、ペレストロイカを断行したが、経済的な混乱は拡大した。また、設備更新の停滞などもあり、シベリア鉄道の輸送力は低下した。連邦崩壊後はロシア号の運行が毎日から隔日に削減されるなどの影響を受けている。1992年1月にウラジオストクが対外開放されたため、外国人旅客も全線の乗車が可能となった。1929年に始まった電化工事は2002年に全線で完成し、列車の積載量は6,000トンにまで大きく増加した。また複線化工事なども継続している。
[編集] 今後の展望
シベリア鉄道はアジアとヨーロッパを結ぶ重要な交通路の一つである「シベリア・ランドブリッジ」の中核であり、特に北東アジアにとって最短・最速の欧州連絡ルートである事に今でも変わりが無い。その一方で、余りにも長大な路線の近代化はまだ途上段階にあり、貨物輸送の定時性や安定性、更にロシアの政治・経済的安定性に疑問が持たれる事がシベリア鉄道の輸送量の低迷につながっている。現在、日本や韓国はシベリア鉄道の近代化に大きな関心を持っている。
[編集] 建設の影響
シベリア鉄道の建設の結果、シベリアからロシア中央部やヨーロッパ諸国へ農産物を輸送できるようになり、シベリアの農業は一大発展の機会を得た。その効果は鉄道沿線のみならず、河川交通を通じて鉄道につながる地域にも及んだ。たとえばアルタイ地方はオビ川の舟運とシベリア鉄道を経由して小麦を輸出できるようになった。
シベリアの農家が安い穀物をヨーロッパに輸出するようになった頃、ロシア中央部の農業は、アレクサンドル2世による1861年の農奴解放令後の経済的な圧力でいまだに混乱していた。このため、ロシア中央部を守り社会的な不安定が起こるのを防ぐため、1896年に政府はチェリャビンスクを通過する穀物に関税障壁をつくるためのチェリャビンスク関税区間(Челябинский тарифный перелом)を設置し、同様の障壁を満州側にも設置した。この措置はシベリアの輸出産品を大きく変えた。アルタイ、ノヴォシビルスク、トムスクには穀物を加工する製粉所が多く設立され、農場はバター生産に路線を変更した。1896年から1913年まで、シベリアは毎年平均で501,932トンの小麦粉などを輸出した。
シベリア鉄道は21世紀の現在もロシア国内の最も重要な輸出路であり続けている。ロシアの輸出に関わる輸送の30%はこの鉄道が担っている。多くの外国からの旅行者を惹きつける一方、国内の旅客輸送の重要な一部でもある。
シベリア鉄道は毎年2万個のコンテナをヨーロッパに輸送し、そのうち8,300個は日本からの輸出品を運んでいる。これは日本からヨーロッパに船などで運ばれる一年当たり36万個のコンテナに比べれば非常に少ない数であり、コンテナ船の大型化やスピードアップ、ソ連崩壊後の鉄道の混乱などでシベリア鉄道を経由する比率は落ちている。しかしかつては船より速い輸送路として定評があり、日本や中国からの輸出自体が増加するなど鉄道輸送の需要や成長の可能性はあることから、ロシア運輸省は鉄道を通じたコンテナ輸送を年10万個にまで増やす計画を進めている。そのためにも、ボトルネックとなっている単線地区を複線化することが必要とされている。
[編集] 沿線の主要都市
- 本線上 モスクワ-ニジニ・ノヴゴロド-キーロフ-ペルミ-エカテリンブルク-チュメニ-オムスク-ノボシビルスク-クラスノヤルスク-タイシェト-アンガルスク-イルクーツク-ウラン・ウデ-チタ-ハバロフスク-ウスリースク-ウラジオストク
- 近隣都市 ヤロスラブリ(2001年まではロシア号が停車)、チェリャビンスク、ブラゴヴェシチェンスク、ナホトカ
- (バム鉄道の沿線都市は当該項を参照のこと)
[編集] 主な列車
- 1・2列車「ロシア号」 ウラジオストク~モスクワ間 シベリア鉄道の代表列車 所要モスクワ行き6泊7日、ウラジオストク行き7泊8日 隔日運行 なお、週1本は平壌・清津(北朝鮮)から国境のハサンを越えて来た車両をウラジオストク~ハバロフスク間のウスリースクで併結し、これが世界最長距離運転の列車となる(モスクワ行き8泊9日、平壌行き9泊10日、走行距離10,214km)。
- 5・6列車「アケアン(大洋)号」 ウラジオストク~ハバロフスク間 所要1泊2日(夕刻発~翌朝到着) 毎日運行
- 19・20列車「ボストーク(東方)号」 北京(中国)・平壌~瀋陽~満州里~チタ~モスクワ間 かつての日本からの欧亜連絡ルートをたどる国際列車 所要モスクワ行き6泊7日、北京・平壌行き7泊8日 週1本運行
- 9・10列車「バイカル号」 イルクーツク~モスクワ間 所要モスクワ行き3泊4日、イルクーツク行き4泊5日 隔日運行
- 25・26列車「シベリヤク号」 ノボシビルスク~モスクワ間 所要2泊3日 毎日運行
- 7・8列車 ウラジオストク~イルクーツク間 「ロシア号」との交互運行列車 所要イルクーツク行き4泊5日、ウラジオストク行き5泊6日 隔日運行
- 3・4列車 北京~ウランバートル(モンゴル)~ウラン・ウデ~モスクワ モンゴル経由の国際列車 所要モスクワ行き5泊6日、北京行き6泊7日 週1本運行
- 5・6列車 ウランバートル~モスクワ間 上記3・4列車と交互運行 所要モスクワ行き4泊5日、ウランバートル行き5泊6日 週1本運行
- 53・54列車 ウラジオストク~オムスク~ハリコフ(ウクライナ)間 世界第2位の長距離列車 所要ハリコフ行き6泊7日、ウラジオストク行き7泊8日 隔日運行
[編集] シベリア鉄道に関連した作品
[編集] 映画
- 『シベリア超特急』シリーズ
[編集] 書籍
[編集] 歌
[編集] 関連項目
- 歴史的観点
- シベリア鉄道と直通運転を行う鉄道
- 欧亜連絡運輸について
- 対抗鉄道計画
[編集] 外部リンク
- The Trans-Siberian Railway: Web Encyclopedia
- Global Stroll's Trans-Siberian Railway.
- Guide to the Trans-Siberian Railway by [1].
- Transportation Overview in the Khabarovsk Krai Region of Russia from U.S. Department of State
- Map
- For timetables, see Travel planner of German Railways (covers Europe, as well as at least each branch of the Trans-Siberian Railway) and time-table with distances (pdf); note that Moscow time applies for railways throughout Russia.
- Travel Planner for Trans-Siberian, Trans-Manchurian and Trans-Mongolian Railways with real time train schedules
- The site about railways in C.I.S. and Baltics
- Guide to the Great Siberian Railway (1900)
- Google Earth Trans-Siberian Railway placemarks and path
- From London to Japan by train and ferry
旅行記:
- From Ulaanbaator to Moscow
- The Australian Broadcasting Corporation's Moscow correspondent writes a travel blog about her trip on the Trans-Siberian.
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