福江藩
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福江藩(ふくえはん)は五島藩(ごとうはん)ともいう。その名の通り肥前国(長崎県)五島列島全域を版籍奉還まで外様大名の五島氏が治めた。石高は1万5千石(一時、富江領に3千石を分知し1万2千石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城、のち幕末までは石田陣屋 長崎県五島市)で城主格だった。
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[編集] 略史
藩の成立は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に初代藩主・五島玄雅が徳川家康に謁し、1万5千石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。
2代・盛利は玄雅の養子としてその後を継いだ。元和5年(1619年)玄雅の実子・角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「大浜主水事件」が起こった。
この事件を機に藩主の支配権強化に着手し藩政の礎を築いた。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは寛永11年(1634年)に完了している。翌、寛永12年(1635年)には領内の検地を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、慶長19年(1614年)に焼失した江川城に代わって、寛永14年(1637年)石田陣屋を建設し藩庁の整備を行った。
4代・盛勝は幼少で藩主となり、寛文元年(1661年)その後見役で叔父の盛清に富江領3千石が分知された。
この地は捕鯨が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現・南松浦郡新上五島町)と富江領魚目村(現・新上五島町)の漁民の間で流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により元禄2年(1689年)入会制度が成立し問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。
捕鯨で潤っていた藩財政も江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、6代・盛佳は領内の労働人口を把握し確保するため享保6年(1721年)より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。
7代・盛道は宝暦11年(1761年)「三年奉公制」と呼ばれる悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出すといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあった。しかし、これは相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、殆どの領民は奉公に出された。「人付け改め」と共にこの制度は幕末まで続いた。
最後の藩主・盛徳の文久3年(1863年)に、先代・盛成の嘉永2年(1849年)より着工した石田城が財政難の中、完成した。
明治4年(1871年)廃藩置県により福江県となる。のち、長崎県に編入された。
明治17年(1884年)旧藩主・五島家は子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
- 五島(ごとう)家
外様 1万5千石→1万2千石→1万5千石
- 玄雅(はるまさ)〔従五位下・淡路守〕
- 盛利(もりとし)〔従五位下・淡路守〕
- 盛次(もりつぐ)〔夭折のため官位官職無し〕
- 盛勝(もりかつ)〔従五位下・淡路守〕分知により1万2千石
- 盛暢(もりのぶ)〔従五位下・佐渡守〕
- 盛佳(もりよし)〔従五位下・大和守〕
- 盛道(もりみち)〔従五位下・淡路守〕
- 盛運(もりゆき)〔従五位下・大和守〕
- 盛繁(もりしげ)〔従五位下・大和守〕
- 盛成(もりあきら)〔従五位下・大和守〕
- 盛徳(もりのり)〔従五位下・飛騨守〕合併により1万5千石
[編集] 富江領
五島氏23代目当主五島盛次の弟盛清が盛次の死後、寛文元年(1661年)宗家より分知された福江藩の分家。石高は3千石で、交代寄合(大名格)として扱われた。慶応4年(1868年)、8代当主盛明の代に再び福江藩に吸収されたが、この際、富江領民が一揆を起こし激しく抵抗した。
[編集] 歴代当主
- 五島(ごとう)家
3,000石
- 盛清(もりきよ)
- 盛朗(もりあき)
- 盛尚(もりひさ)
- 盛峯(もりみね)
- 盛恭(もりやす)
- 運龍(ゆきたつ)
- 盛貫(もりつら)
- 盛明(もりはる)