細川持隆
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細川 持隆(ほそかわ もちたか)は、戦国時代の武将。細川氏の一族で阿波国の守護。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 明応6年(1497年) | |||
死没 | 天文22年(1553年) | |||
別名 | 持重(別名) | |||
官位 | 讃岐守 | |||
幕府 | 室町幕府阿波守護 | |||
氏族 | 細川氏 | |||
父母 | 父:細川之持 | |||
妻 | 側室:岡本牧西の娘・小少将 | |||
子 | 細川真之 |
明応6年(1497年)、細川之持の子として生まれる。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継いで阿波守護となった。細川本家の当主である細川晴元をよく補佐し、享禄4年(1531年)には軍を率いて和泉に渡海し、細川高国討伐で功績を挙げた。天文8年(1539年)、赤松政村の要請を受けて備中に出陣し、出雲の尼子晴久(詮久)と戦ったが、このときは敗れた。
天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、三好長慶に対抗しようとして足利氏の一族である足利義栄を擁して上洛しようとしたが、計画が長慶の弟・三好義賢に漏れてしまい、天文22年(1553年)に見性寺において殺されてしまった。享年57。