統帥権
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統帥権(とうすいけん the supreme authority of commanding the Army and Navy)とは、軍隊における最高指揮権をいう。
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[編集] 近代日本における統帥権
近代日本では大日本帝国憲法第11条が定めていた天皇大権のひとつである陸軍や海軍への統帥の権能を指す[1]。
明治憲法下で天皇の権能は、特に規定がなければ国務大臣が補弼することとなっていた。併しそれは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令については、国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた。この軍令と国務大臣が補弼する軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生する。この明治憲法が抱えていた缺陥が、1940年より終戦に至るまでの日本の国家社会主義化を助長した点は否めない。
[編集] 統帥権干犯問題
注:明治憲法の条文が記載されています。原文はカタカナ表記ですが、読みやすさを考慮してひらがな表記にします。
- なお、軍人の暴走例としてよく取り上げられる問題ではあるが、そもそも国会議員が政治抗争の手段として、軍内部の争いに油を注ぐ形で持ち出した問題であることには注意するべき。
[編集] 遠因
明治憲法下では軍の統帥権が天皇にあったが、編成権(部隊編成、予算編成など)に関しては、国務大臣が補弼するのか。それとも、憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については、国務大臣が輔弼せず統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていたことにより、その大権に含まれるのかどうかが大きな論点となっていた。
から編成権も統帥権に含まれるとする意見と、
- 第55条 第1項 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
から、軍の編成権は内閣が持つとする意見がある。
- 第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
- 第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし
により、軍の編成・維持のための予算は議会が決定する物であるが、統帥部は、軍事に関する情報を内閣に通さず天皇に報告(上奏)できたため、国務大臣(内閣)が関わる必要がないと言う考えが大勢を占めた。
[編集] 表面化
1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会においてロンドン海軍軍縮条約締結に対し、軍令部が要求していた、補助艦の対米比7割に満たないとして条約締結拒否を言ったにもかかわらず、この条約を結んだことを理由に(ただし条約での補助艦全体の対米比は6.975であり、0.025少ないだけである)、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃。同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになる。当時の軍令部総長加藤寛治は、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出。同年11月14日、濱口雄幸総理は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷(翌年8月26日死亡)。濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職する。
[編集] 結果
この事件以降日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利を行使され政府はそれを止める手段を失うことになる。
政友会がこの問題を持ち出したのは、その年に行われた第17回衆議院議員総選挙で大敗したことからくる政府攻撃のための手段でしかなかった。その後、総理となった犬養毅が軍縮をしようとしたところ、五・一五事件でその軍部に殺害され政党政治が終結を迎え、戦時中には軍の圧力により逼塞状態にあった鳩山一郎が戦後に総理就任を目前でGHQからこの時の事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となるなど、皮肉な歴史を辿る事となった。
[編集] 「東條幕府」
1942年、東條英機首相兼陸相が参謀総長を兼任した。また、嶋田繁太郎海相も軍令部総長を兼任した。このとき、憲法違反の疑いがあったが、東條は押し切った。このため、権力の集中した東條に対して「東條幕府」という陰口がきかれるようになる。ただ、上記のような統帥権の問題を回避するには有効な方法だったかもしれない。
[編集] 注
[編集] 参考文献
- 舩木繁『日本の非運40年 統帥権における軍部の苦悩』(文京出版、1997年) ISBN 4938893061
- 秦郁彦『統帥権と帝国陸海軍の時代』(平凡社新書、2006年) ISBN 4582853080