織田信倉
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織田信倉(おだ のぶくら、元禄9年(1696年) - 宝暦2年10月9日(1752年11月14日))は江戸時代の旗本。旗本能勢頼寛の3男。養父は高家旗本織田信門。幼名は鍋次郎、通称は大膳。官位は従四位上左少将・能登守。
実父能勢頼寛は江戸町奉行を勤めており、能吏であったようである。頼寛の祖父頼次の4女が織田高重に嫁いでおり、そうした縁戚関係から信倉が織田家に迎えられたと考えられる。
享保元年(1716年)10月20日家督を相続する。享保13年(1728年)12月15日高家職に就任し、従五位下侍従・淡路守に叙任する。後に従四位上左少将・能登守に昇進する。元文4年(1739年)4月22日高家肝煎となる。宝暦2年(1752年)10月9日死去、享年57。
なお、家来の田沼次喜(文右衛門)は高倉家衣紋会の会頭に就いている。幕府の儀礼に際しての正式な装束を調えるため、公家の高倉家の門人になる武士は少なくなかった。衣紋会の会頭は、江戸の門人と京都の高倉家との連絡調整を担っていたのである。
正室は久世広隆の長女。子女はいない。養子信直(織田信義の次男)。
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