花村四郎
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花村 四郎(はなむら しろう、明治24年(1891年)8月30日~昭和38年(1963年)7月1日)は日本の弁護士、政治家。衆議院議員。第1次、第2次鳩山一郎内閣で法務大臣を務めた。
明治24年(1891年)8月30日長野県東筑摩郡川手村(現在の安曇野市)に生まれる。村長を務めた父が早世し、苦学する。旧制松本商業学校(現在の松商学園高等学校)を経て、大正6年(1917年)日本大学法律科を卒業する。卒業後2年間大学に残り、法律を学び、大正8年(1919年)弁護士試験に合格し、弁護士を開業した。当時の少壮弁護士は、社会問題化していた農村における小作争議で小作人の擁護に当たる傾向があったが、花村も香川県大田村伏石の伏石争議で小作人の弁護に当たった。花村は警察当局が公判を有利に進めるため武装した警察官を配置したことに抗議し拘束されたこともあった。大正15年(1926年)日本弁護士協会理事に選出される。同年長野県で起きた警廃事件では、弁護団長となった原嘉道(のちの司法大臣、枢密院議長)に見出され弁護団に参加する。原、花村ら弁護団は事件が梅谷光貞長野県知事の警察署三箇所の廃止が原因と主張し、有利な判決を勝ち取る。この事件を契機に立憲政友会衆議院議員だった鳩山一郎と関係を持つことになる。この間、万朝報主筆などを務めている。
昭和2年(1927年)東京弁護士会副会長に就任する。昭和7年(1932年)鳩山の勧めもあり東京市会議員選挙に立候補し当選する。昭和10年(1936年)東京市議のまま、東京府会議員に当選する。昭和17年(1942年)第21回衆議院議員総選挙は翼賛選挙として悪名高いが、花村は鳩山らに組する形で旧東京5区(定員5名)から翼賛政治体制協議会非推薦で立候補し最下位ながらも当選を果たした。以後当選8回。
昭和20年(1945年)終戦を迎え、同年10月日本自由党に参加し、鳩山総裁秘書となる。しかし、鳩山が公職追放となり、吉田茂内閣で文部参与官に就任した。法曹出身者として第3次吉田内閣で衆議院法務委員長、昭和27年(1952年)には裁判官弾劾裁判長に就任した。同年鳩山の追放が解除されると鳩山派の一員として吉田自由党と対立する。昭和29年(1952年)第1次鳩山内閣の法務大臣として入閣し、第2次鳩山内閣でも留任する。法相辞任後は、日本商科大学、千葉商科大学で教壇に立った。鳩山引退後は、石橋湛山派を経て、藤山愛一郎派に所属した。昭和38年(1963年)7月1日死去。72歳。
[編集] 著書
- 陪審法通義
- 独逸弁護士法
- 欧州経済統合の経緯とその前途
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