花畑運河
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花畑運河(はなはたうんが)とは東京都足立区東部を流れる運河。 東京近郊農村地帯と都心を連絡する舟運の利便化のために1931年(昭和6年)に、第一級河川中川と綾瀬川を結ぶ運河として開削された。
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[編集] 地域
足立区東部を中川と綾瀬川を結び東西に流れる川である。普段の水深や流量はそれほど多くは無く、都心近郊の川の例に漏れなく水質は悪い。川底には粗大ゴミやヘドロが溜まり、一時期は夏場にひどい悪臭が漂うこともあった。川沿いには釣り糸を垂れる人影もまま見られ、それなりの収穫を得るようである。
[編集] 運河の歴史
[編集] 開削の背景
1910年(明治43年)の荒川大洪水で東京が壊滅的打撃を被ったことから、翌1911年(明治44年)に開始された荒川放水路の建設事業が完成することで、東京の治水は一応の安泰をみた。 しかしここで水運事業に大きな支障が発生することとなる。 当時は北関東の穀倉地帯から下ってきた運搬船は中川(古利根川)→中川水門(葛飾区東四ツ木)→荒川放水路→木下川水門(墨田区東墨田)→旧中川→北十間川→向島→隅田川へと進んだ。 しかし小名木川閘門の完成の遅れから木下川水門で船の大渋滞が発生した。 舟運は穀倉地帯からの食糧の輸送だけでなく、都心から出された大量の糞尿を農耕地帯へと肥料として送り出しており、最盛期には3,800隻近くの運搬船が行き交っていたため、小名木川閘門に加え船堀・小松川の二つの閘門の完成後も渋滞は解消されることはなく、東京の舟運における大きな足かせとなった。 一方で綾瀬川を下る船は船堀の綾瀬水門から出て荒川放水路を横断し、千住曙町の隅田水門から隅田川に入ればよく、船の動きもスムーズで渋滞も発生することはなかった。そこで1925年度計画に急遽花畑運河の開削工事の実施が決定され中川の船を綾瀬川に流すようにした。 花畑運河の開削事業は用地取得の完了した1927年(昭和2年)に竣工し、荒川放水路の竣工に半年遅れた1931年(昭和6年)12月に完成した。
[編集] 開削と発展
上記のように東京へ向けた食糧品は中川から荒川放水路といくつもの水門・閘門を経て隅田川へと至っていた。 しかしこの花畑運河の開通によって中川→花畑運河→綾瀬川→綾瀬水門→荒川放水路→隅田水門→旧綾瀬川→隅田川の経路が誕生し、16kmの水路が短縮された。こうして中川の舟運は飛躍的に発展し、花畑運河には絶え間ない船の流れが見られるようになった。
[編集] 運河の衰退
太平洋戦争(大東亜戦争/第二次世界大戦)の終結でGHQが戦後日本の占領統治に乗り出すと様々な改革事業のなかで、農業の肥料に用いられてきた下肥え(糞尿)の使用が漸次化学肥料へと切り替えられていった。これにより下肥えを運搬していた船の数が激減すると花畑運河の利用価値は薄れ、たまに通過する船は東京湾行きの釣り船だけとなった。
[編集] 花畑運河関連年表
- 1910年(明治43年)--月--日 荒川大洪水
- 1921年(大正10年)3月--日 東京府議会にて開削決定
- 1925年(大正14年)--月--日 開削工事の実施決定
- 1927年(昭和2年)--月--日 開削工事着工
- 1931年(昭和6年)12月--日 竣工。月見橋・花見橋架橋
- 1938年(昭和13年)--月--日 雪見橋架橋
- 1949年(昭和24年)--月--日 桜木橋架橋
- 1981年(昭和56年)--月--日 人道橋架橋
- 1983年(昭和58年)--月--日 富士見橋人道歩道橋架橋
- 1994年(平成6年)--月--日 桜木橋改修
[編集] 花畑運河諸元
- 全長:-m
- 全幅:-m
- 水深:-m
- 流量:-t/分
- 管理者:○○○
[編集] 花畑運河に架かる橋梁・道路
中川側
- 花見橋
- 桜木橋
- 雪見橋
- 月見橋
- 埼玉県道・東京都道102号平方東京線
- 首都高速道路6号三郷線
綾瀬川側
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