菊姫 (上杉氏)
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菊姫(きくひめ、永禄6年(1563年) - 慶長9年2月16日(1604年3月16日))は、武田信玄の六女。母は油川信安の娘油川夫人。別名は、阿菊御料人、甲斐御前、大儀院。上杉景勝の正室である。
武田勝頼の妹。1575年の長篠の戦いで、勝頼が織田信長に敗れて武田氏の勢力が衰退したとき、上杉氏と同盟を結んで信長に対抗するため、武田・上杉和睦が行なわれた1579年が、両家の同盟の証として景勝に嫁いだ。婚姻が行なわれたのは景勝と上杉景虎による御館の乱の最中のことであった。
上杉家では甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれて、景勝や上杉家から大事にされた。景勝との間には子供は無かったが、景勝は20年近く側室を持たず、また側室との間に生まれた定勝も武田家を丁重に扱った。
慶長8年冬から病で体調を崩していた菊姫は、洛中の名医を招いたり諸山の高僧に祈祷させるなどの治療の甲斐無く、翌9年2月16年に伏見屋敷で亡くなった。上杉年譜に「公(景勝)ヲ始メ奉リ、諸士ニ至ルマテ悲歓カキリナシ」とある。
なお、武田氏滅亡時に菊姫の縁を頼って上杉家に逃れてきた信玄七男(六男説有)で菊姫弟の信清は、姉の力もあってか上杉家で優遇され、子孫は上杉藩主親族の高家衆筆頭として幕末まで続いている。
法名は大儀院殿梅岩周香大師。始め京都妙心寺亀仙庵に埋葬、後に米沢の林泉寺に改装された。
俗説として、側室が男子(定勝)を懐妊した事を悲嘆して自害したという話があるが、たまたま定勝誕生と菊姫の死の時期が重なったに過ぎず、根拠はない。 歌舞伎の『本朝廿四孝』のヒロイン「八重垣姫」は菊姫がモデルとされる。