藤原俊家
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藤原俊家(ふじわら・の・としいえ、1014年-1082年)は平安時代中期の政治家、歌人。
藤原氏北家の出身。祖父は摂政太政大臣藤原道長。父は堀河右大臣藤原頼宗。母は内大臣藤原伊周の娘。
兄に権中納言藤原兼頼。弟に内大臣藤原能長(叔父藤原能信の養子)、藤原基貞、藤原能季、頼観がいる。
娘の藤原全子は後二条関白藤原師通の妻女で摂政関白太政大臣藤原忠実の母。 子息は藤原宗俊(中御門家の祖)、藤原基俊、藤原基頼(持明院家)、藤原宗通(坊門家)、寛慶がいた。
官職は、右近衛中将、蔵人頭、参議、権中納言、権大納言、民部卿、按察使、右大臣などを歴任した。
大宮右大臣と尊称された。
[編集] 経歴
- 長元7年(1034年) 2月 8日 右近衛中将
- 長元7年(1034年)母の従弟の藤原経輔を随身に叩かせた罪で官職を解任。
- 長元8年(1035年)正月12日 備後権守
- 長元8年(1035年)10月17日 蔵人
- 長元9年(1036年) 4月17日 蔵人頭
- 長暦2年(1038年) 6月27日 参議
- 永承3年(1047年)12月 7日 権中納言
[編集] 伝承および記録
声がよくとおり、歌を詠いあげるのがうまかったといわれ、その声に誘われて多政方という舞の名人と阿吽の呼吸で舞い踊ったことが古今著聞集(橘成季の作)に記録されている。
能楽の「佐保山」の由来は、藤原俊家の一行が春日大社に参詣した際に佐保山の上に白雲のような物を見つける。その白い物は衣で、その衣をさらしていた女性にその謂われを尋ねると、和歌にも詠まれている特別な衣だと答え、奈良の山々や景色、その山神の神徳と君が代の万歳をことほぎ、神祭りを見せようと姿を消す。そして佐保山の姫が現われ神楽を奏したということにある。