藤原忠雅
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藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ、大治4年(1129年) - 建久4年8月26日(1193年9月23日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。中納言藤原忠宗の次男。父忠宗は藤原北家藤原頼通の子師実の次子家忠の長子である。母は院の近臣である参議藤原家保の娘。
忠雅は幼少時に父を亡くし、母方の叔父藤原家成に引き取られて育った。家成の引き立てもあり、院の近臣として順調に出世を重ねる。また、「悪左府」として有名な藤原頼長とも非常に親しい関係にあった。力をつける平清盛にも近づき、息子兼雅と清盛の娘を結婚させる事に成功する。
仁安3年(1168年)5月17日、辞職した清盛の後任として太政大臣就任。嘉応2年(1170年)6月6日間で勤める。承安元年(1171年)には娘を後任の太政大臣で後に関白になる藤原基房に嫁がせる。このように忠雅は、巧みな婚姻政策によって平氏政権の下で昇進し、後の花山院家の発展の礎を築いた。
また、源義重は、開発した新田郡西南部地域を、保元2年(1157年)3月8日に左衛門督であった忠雅に寄進している。これにより新田荘が成立し、忠雅は新田荘の荘園領主となり、義重を下司職に任命した。これにより義重は間接的に平氏政権に近づくことになった。