源義重
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源 義重(みなもと の よししげ)
- 源義綱の長男。父、義綱が甥、源義忠暗殺事件の容疑を受けた際に、近江国甲賀山で自決した。
- 源義仲(木曽義仲)の次男。母は巴御前。別名三郎坊。子は、義任、義豊、重種。向島へ行った。
- 源義国の長男。新田義重とも。後段にて解説する。
[編集] 新田義重
新田 義重(にった よししげ、天治2年1125年 - 建仁2年1月14日(1202年2月8日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。源義国の長子。武家棟梁として名を馳せた河内源氏三代目の八幡太郎義家の孫。母は上野介藤原敦基の娘。新田氏本宗家の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。贈鎮守府将軍。異母弟は足利氏の始祖の源義康・源季邦。生年は古来から諸説があり、保延元年(1135年)や永久2年(1114年)という説がある(「鑁阿寺・新田足利両家系図」より)。
父の義国は下野国足利荘を開墾したが、これは次男の義康が継承し、長男の義重は新たに上野国新田郡の開拓事業に乗り出す。その過程で、源義賢、武蔵秩父党、下野(藤原姓)足利党といった諸勢力とは緊張関係に陥るが、一方南関東の支配者で、弟義康と相婿でもある源義朝・義平父子とは提携し、娘を義平の室としている(また甥の足利義清にも娘を嫁がせている)。保元2年(1157年)、平家系の藤原忠雅を領家として新田荘の立荘に成功、新田荘司を称す。(当時の上野国司藤原重家の舅が鳥羽院御願寺金剛心院の造営に深く関与をした藤原家成であり、藤原氏北家花山院流藤原忠雅の母の兄も藤原家成であった。)ここに至り、かねてより敵対していた秩父党、藤原姓足利党らと本格的に武力衝突、渡良瀬川の強硬渡河作戦によってこれを撃破し(秩父足利合戦)、さらに北関東における地盤を確固たるものにした。
平家全盛時代にはこれに臣従し、従五位下・大炊助に任ぜられる。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵の際には、甥足利義兼(義清の異母弟)・子山名義範・孫里見義成らが早期にその麾下に帰参したのに対し、義重は一時日和見的態度を取る。この背景には、北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていたことや、新田荘が平家方の荘園であったこと、また木曾義仲とは親子2代に渡る宿敵関係でありこれを牽制する必要があった、といった要因が挙げられる。
やがて頼朝の威勢興隆を目の当たりにし、慌てて鎌倉に駆けつけるが、容易に頼朝の不信感をぬぐうことはできず、安達盛長の取り成しでようやく帰参が叶ったという。さらに、未亡人となっていた娘(源義平室)を頼朝の側室にと乞われるもこれを拒否し、より一層頼朝の不興を買ったと伝えられている。
甥の義兼が逸早く頼朝の下に駆けつけて活躍し、以後代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位を保ったのに対し、鎌倉政権内における義重の立場は常に微妙であり、幕府成立のために積極的に協力したとは言いがたいものがあった。このことが足利・新田両氏の処遇の差となって表れ、後代まで尾を引いていくことになる。
但し義重自身は、源家の最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として、一定の敬意を受けていたようである。吾妻鏡建久4年(1193年)4月28日頼朝は那須狩の帰りに式部大夫入道上西新田館にて遊覧し、建仁2年(1202年)1月29日の記述には尼御台所(北条政子)が将軍家(源頼家)に対し「故仁田入道上西(義重)は源家の重鎮であったが、その死去から二十日もたっていないのに蹴鞠に興じるのは然るべからず」と叱責する記述がなされている。
[編集] 新田氏後裔
- 荒井氏
- 大館氏 室町幕府で、要職を務めた。
- 堀口氏 南朝から美濃を与えられ、美濃に土着。
- 一井氏
- 綿打氏
- 金谷氏
- 谷嶋氏
- 細谷氏
- 下細谷氏
- 西谷氏
- 今井氏
- 脇屋氏
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