藤原頼長
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藤原頼長(ふじわらのよりなが、寛仁4年(1120年) - 保元元年7月14日(1156年8月1日))は、平安時代末期の貴族。藤原忠実の次男。母は土佐守藤原盛実の娘。関白・藤原忠通の弟で、1125年にその猶子となる。幼名は菖蒲若。世に悪左府、宇治左大臣という。
1130年に元服して従五位に叙せられ、侍従、近衛少将、伊予権守等に任官。同年、右近衛権中将。1131年に従三位。1134年に権大納言。1136年には内大臣、右近衛大将を兼ねる。1139年には皇太子傅となり左近衛大将。
頼長は幼時より令名高く、膨大な和漢の書を読み「日本一の大学生、和漢の才に富む」とその学識の高さを評された。しかしながら、彼は酷薄で他人に容赦のない性格でもあり「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、悪左府と呼ばれた。
父忠実は温厚な関白の兄忠通を嫌い、弟の頼長を偏愛した。忠通は頼長の二十五歳上だったため、頼長はかつて忠通の養子だったこともあった。しかし1143年、忠通に実子近衛基実が生まれるとその関係に終止符が打たれ、忠通と頼長は出世を競うようになる。頼長は養女多子を近衛天皇に入内させ外祖父になることを望んだ。1149年、左大臣に進む。 同年、忠実は忠通の氏長者の地位を頼長へとってあたえる。1150年、頼長は源為義、源頼賢の兵を率いて忠通の別邸を襲って氏長者の印たる朱器台盤を奪い、これらを忠実は頼長に渡した。
1151年、忠実の尽力により頼長は内覧の宣旨を受ける。執政の座について朝議復興に辣腕を振るい、鳥羽法皇の寵幸を受けた。しかしながら、近衛天皇は頼長をあからさまに嫌っていた。またこの年、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣である藤原家成の邸宅を破壊させるという行為に及んでおり、これを境に徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。
1155年、近衛天皇が子なく崩御し、忠通と法皇の寵姫美福門院の推す後白河天皇が即位すると状況は一変する。近衛天皇崩御のおりに頼長が呪詛したとの噂が起こり、鳥羽法皇からの信頼を決定的に喪失、内覧を停止され事実上失脚する。
頼長は局面の打開のため、かつて鳥羽法皇から無理強いで譲位させられて以来失意にあった崇徳上皇に接近する。1156年、鳥羽法皇が崩御すると政権奪取を図り、崇徳上皇の御所白河殿に源為義、平忠正、源頼憲らの武士を集めた。後白河天皇も源義朝、平清盛らを集め一触即発の緊張が高まり、保元の乱が起こる。戦闘は数に勝る天皇方の勝利に終わり、頼長は源重貞の放った矢が眼にあたり重傷を負う。逃れて父忠実に対面を望むがこれを拒まれ、失意のうちに舟中で死んだ。
頼長の死後、長男兼長、次男師長、三男隆長、四男範長は全て地方へ流罪となり、師長を除く三人はそれぞれの配所にて亡くなった。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に父・頼長でさえ果たせなかった太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再度流罪にされるなど波乱の生涯を送っている。
[編集] 伝記
- 橋本義彦『藤原頼長』(吉川弘文館人物叢書、1994年新装版) ISBN 4642051090