藤原範季
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藤原 範季(ふじわらの のりすえ、大治5年(1130年)-元久2年(1205年))は平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。
父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。藤原範兼は兄で養父でもある。妻は平教盛娘教子。娘に後鳥羽天皇女院で順徳天皇生母である修明門院重子がいる。
保延5年(1139年)父能兼が没し、兄範兼の養子になる。文章得業生から大膳亮になる。平治の乱で没落した源義朝の子範頼を子の範資と一緒に養育。長寛3年(1165年)4月、範兼が死没し、その子らを養育。近江守、常陸介、上野介など受領職を歴任。安元元年(1175年)式部権少輔。安元2年(1176年)1月、陸奥守を兼任。3月、藤原秀衡の後任として鎮守府将軍にも任ぜられ、陸奥へ下向。治承2年(1178年)10月以前に帰洛。文治2年(1186年)、興福寺に潜伏中の源義経と接触し匿う。義経を匿ったことが露見し、11月解官。建久7年(1196年)正四位下。同8年(1197年)12月15日、従三位。建仁元年(1201年)発生した建仁の乱では首謀者の一人藤原高衡が一時邸内に逃げ込む。同2年(1202年)閏10月、正三位。同3年(1203年)1月、従二位。式部権少輔。元久2年(1205年)5月、死亡。贈左大臣従一位。
どのような伝を辿ったのか不明だが範頼を庇護、養育している。また、後白河法皇の指示もあったと思われるが、陸奥守、鎮守府将軍を歴任し、奥州藤原氏との縁もあり、義経を庇護している。ただし、実子範資は義経の追討に積極的で、義経が伊予に向けて都落ちする時に在京していた範頼の手勢を率いて出陣している。