後白河天皇
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後白河天皇(ごしらかわてんのう 大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代の第77代天皇。名を雅仁(まさひと)という。
目次 |
[編集] 系譜
鳥羽天皇の第四皇子。母は、藤原公実(きんざね)の娘、待賢門院璋子。
主な妃、皇子女
- 中宮:徳大寺(藤原)忻子(1134-1209)
- 親王妃:源懿子(1116-1143)
- 第一皇子:守仁親王(二条天皇)(1143-1165)
- 女御:三条(藤原)琮子
- 女御:平滋子(1142-1176)
- 第七皇子:憲仁親王(高倉天皇)(1161-1181)
- 妃:藤原成子(?-1177)
- 妃:藤原公能女(坊門殿)
- 第五皇女:惇子内親王(1158-1172) 斎宮
- 妃:高階栄子(丹後局)(1151?-1216)
- 第六皇女:覲子内親王(宣陽門院)(1181-1252)
[編集] 系図
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(71)後三条天皇 |
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(72)白河天皇 |
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(73)堀河天皇 |
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(74)鳥羽天皇 |
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(75)崇徳天皇 |
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重仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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覚行法親王 |
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最雲法親王 |
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(77)後白河天皇 |
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実仁親王 |
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覚法法親王 |
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(76)近衛天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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媞子内親王 (郁芳門院) |
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輔仁親王 |
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(源)有仁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(77)後白河天皇 |
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(78)二条天皇 |
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(79)六条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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以仁王 |
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(81)安徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(80)高倉天皇 |
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守貞親王 (後高倉上皇) |
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(86)後堀河天皇 |
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(87)四条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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亮子内親王 (殷富門院) |
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(82)後鳥羽天皇 |
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(83)土御門天皇 |
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(88)後嵯峨天皇 |
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式子内親王 |
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(84)順徳天皇 |
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(85)仲恭天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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[編集] 略歴
1155年、近衛天皇が亡くなり、立太子しないまま践祚。後白河の践祚には、崇徳上皇の復位、あるいはその皇子重仁親王の即位を嫌った関白の藤原忠通や、鳥羽法皇らによって擁立された。
そのため当初、法皇は雅仁親王(後白河天皇)の資質に疑問を抱き、その子で英邁の誉れの高かった守仁親王(後の二条天皇)を即位させる意向であったが、守仁親王はまだ年少であり、尚且つ存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がり雅仁親王が即位した。すなわち、後白河天皇の即位には、崇徳上皇系の皇族の皇位継承権の否定とともに二条天皇への中継ぎの役割の二つの意味を持っていたといえる。一方、鳥羽法皇側と崇徳上皇と左大臣藤原頼長の間では緊迫の度を増していた。これに対して藤原通憲(後に出家して藤原信西)が後白河天皇の後見をつとめた。
1156年、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生した。後白河天皇側の武家、平清盛・源義朝らは、崇徳上皇が軍を動かす前に夜襲を起こし、崇徳上皇は讃岐へ流され、源為義は斬首になった。乱後政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理などを行う。1158年には、守仁親王(二条天皇)に譲位して院政を開始。以後二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代に渡って院政を続けた。
しかし、後白河上皇の院政の中には、大きな派閥対立があった。即ち信西と藤原信頼、平清盛と源義朝が互いに反目しあっていた。更に鳥羽法皇が将来的に望んだのは二条天皇の親政であり、中継ぎに過ぎない後白河上皇には治天の君の資格はないと考える天皇とその周辺の廷臣達の勢力も加わり、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。この対立は1159年に頂点に達し平治の乱が発生する。結果は信頼側が負け、信頼は殺され、信頼側に付いた源義朝とその一族は殺された。これ以降、平家の天下になり、平清盛の武力を背景に、天皇親政の勢力を排除しながら院政を続けようとする。これに対して天皇側も上皇側近の追放によって反撃したために一時院政が停止に追い込まれるが、1166年に二条天皇が急死すると院政を再開させて、2年後には二条天皇の遺児である六条天皇を廃位に追い込み、高倉天皇を即位させた。
1169年に出家し、法皇となる。勢力を伸張させた平氏と法皇の間でも軋轢が生じ、1177年、平家打倒の密謀事件である鹿ヶ谷の陰謀が起こると、法皇方勢力は排除される。1179年、7月に平重盛が死去すると、後白河法皇は重盛の所領を没収する。これに対し、清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政は停止される。1178年、安徳天皇を擁立し平氏政権を成立させる。
1180年、皇子の以仁王が諸国に令旨を発し、京都で源頼政と平氏打倒の軍を挙げた。この挙兵は失敗に終わるが、以仁王の平氏討伐の令旨を受け取った各地の源氏が呼応し、木曽の源義仲(木曽義仲)、伊豆へ流罪となっていた義朝の子の源頼朝などが挙兵すると、後白河法皇はこれを支援する。
1181年清盛が病死すると平氏の勢力は急激に衰え、後白河法皇は院政を再開し、1183年7月には、木曽義仲が叡山と連携して京都に攻め込むと、平氏は安徳天皇、建礼門院らを伴い、三種の神器と共に西へ落ち延びていった。叡山に避難していた法皇は京へ戻ると、上洛した木曽義仲・源行家らを迎えて平家追討の院宣を下す。
高倉院の宮から新帝を擁立する際には、義仲は以仁王の子の北陸宮を推挙するが、後白河は寵姫の丹後局の影響でこれを退けて尊成親王(後鳥羽天皇)に決定し神器が無いため緊急避難措置として院宣により即位させた。9月、鎌倉に本拠を置いた頼朝が密奏を行い、東国の支配権を認めさせると、義仲は京で孤立する。頼朝に義仲追討を命じ、頼朝の弟の源義経に命じてこれを討たせた。さらに平氏討伐の命令を出し、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。
すると今度は、頼朝と法皇の間で確執が発生し、義経に頼朝討伐の院宣を下す。しかし義経が敗れ、今度は頼朝の抗議と兵糧攻めを受けると、後白河は頼朝に義経追討の院宣を下す。1189年義経が殺されると、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされるが、これを拒否。
しかし頼朝が奥州藤原氏を攻めると、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下し、後に頼朝は上洛して法皇と和解。ただし頼朝より願い出された征夷大将軍への就任と、九条兼実の関白就任は断固拒否する。
そのため頼朝と兼実は法皇の死を待つことで一致し、1192年3月に法皇が66歳で死去すると、頼朝は7月に征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開いた。
[編集] 人物
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と父・鳥羽法皇に酷評されていたという。後に『梁塵秘抄』を撰する。今様の歌いすぎで、3回ものどをこわしたと言う話も伝わっている。また、自分の政権維持のために、平家や木曾義仲ら武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討伐という形で使い捨てを続けた事から、源頼朝からは「日本国第一の大天狗」と評された(ただし、近年この大天狗の表現は、院近臣高階泰経を指したのではないかとする説も出ている)。
[編集] 在位中の元号
[編集] 諡号・追号
- 行真法皇
[編集] 陵墓・霊廟
京都市東山区三十三間堂廻り町にある法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)に葬られた。
[編集] 参考文献
- 安田元久『後白河上皇』(吉川弘文館人物叢書、1986年新装版) ISBN 4642050795
- 棚橋光男『後白河法皇』
- (講談社選書メチエ、1995年) ISBN 4062580659
- (講談社学術文庫、2006年) ISBN 4061597779
- 下郡 剛『後白河院政の研究』(吉川弘文館、1999年) ISBN 4642027815
[編集] 関連項目
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歴代天皇一覧 | |||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |